夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

大祓えの時

2012年06月21日 08時00分16秒 | 日記
 古い昔には大中臣氏が大祓祝詞を奏上していたと読んだ記憶がある。現代でも歳の半ばと年末に奏上しているような・・・この辺りはもっと勉強しなければならないと思っている。
 過日、地鎮祭に列席、祭壇の前で神主が何を奏上しているかとじっと聞いていると大祓祝詞であった。天津祝詞もそのはじめに禊、その終わりに祓いを言っている。神社参拝の方式は手水社でまず両手と口を清める。聖書のレビ記は穢れと清めについて事細かに述べている。神道もレビ記も穢れと清めに非常に敏感であることに気が着く。
 我々はここから宇宙の原理を洞察しなければならない。全宇宙はあらゆる意味に於いて穢れがあってはならない。聖なるものでなければならない。塵一つほどの穢れがあっても浄化されなければならない。瑕疵は除かれなければならない。創造の神が完璧であるならばその創造も完璧でなければならない。これに割り込みを掛けたものは除かれなければならないし、それに加担したもの、瑕疵に便乗する者共も除かれなければならない。
 ここ数年、アセンション、終末、次元上昇、マヤ暦、などの記事がネット上に溢れているが私思うに”大祓え”の時が近いのであろう。動物が危険を察知して大移動するように人間もまた何かしら身の危険を察知して右往左往し出したのであろう。・・・地にては国々の民悩み、海と浪との鳴り轟くによりて狼狽へ、人々おそれ、かつ世界に来たらんとする事を思ひて気を失わん。これ天の万象、震い動けばなり。その時人々、人の子の能力(ちから)と大いなる栄光とをもて、雲に乗り来るを見ん。・・・(ルカ伝21章)、即ち見えないけれども何かが近着いていることに人々は勘着き始めているのだろう。
 かくして全ての隠された事は白日の下に曝され、その内実を詳らかにされ、検閲され、祓い清めが行われるであろう。
 大祓え、禊、清めの時に向かって、私の息子たち、心身の清潔、思想、思考の清潔、立ち居振る舞いの清潔に心を用いたまえ。穢れるなかれ。



Sh'ma Yis'ra'eil Adonai Eloheimu, Adonai echad.

型を守ることをおろそかにしてはならない

2012年06月20日 09時41分39秒 | 日記
 ピアノ、バイオリン、三味線、踊り、剣道、弓道、華道、茶道、その他諸々、自己流では決して上達しない。先生について型を習わなければならない。柳生神陰流も真庭念流も最初は型を習うことからはじめてやがて型を自ら編み出したものに相違ない。これらのことは言わなくても常識として人々の心に染み付いている。型が信仰に裏付けられていると言ってもよかろう。
 過日、近所の産土神に参詣した。終わってふと後ろを振り返ると参道の遥か向う、鳥居の外で拝礼している老婦人に気が着いた。彼女はここに神さんが居られることを信じているのだ、と思った。肥前の国鹿島に姻戚を訪ねた際、まずは祐徳稲荷神社に挨拶に伺った。見ると、特別の祭礼日でもないのに境内は老若男女で溢れている、茶髪のアンチャン風、ハネッカエリのギャル風のまでわんさと居る。
 一方、春日大社の行事を報道で見た。勅使が来て声を出さずに何事かを奏上する、等、あたかも神居ます如くに全ての事が成されて行く。凡そ全国に無数にある神社でそれは同様であろう。
 このような型を、”信仰によって守る”限り日本は安泰であろうと思う。聖書黙示録の次の一節が脳裏に浮かぶ、曰く、”われ汝のおこないを知る、見よ、我汝の前に開けたる門を置く、これを閉じ得る者なし。汝少しの力ありて我がことばを守り、我が名を否まざりき。見よ、我サタンの会、すなはち自らユダヤ人ととなえてユダヤ人にあらず、ただいつわりをいう者のうちより、或る者をして汝の足元に来たり拝せしめ、わが汝を愛せしことを知らしめん。汝我が忍耐のことばを守りし故に、我汝を守りて、地に住むものどもを試むるために全世界に来たらんとするこころみのときに免れしめん。われ速やかに来たらん、汝の持つものを守りて、汝の冠を人に奪われざれ・・・・”(黙示録3章)
 西洋かぶれ、いや、キリスト教かぶれの人々は日本人の神道をなんだか幼稚なもののように言い成す。さても教養洞察のない。神はまさにこのようにしてその秘儀を隠されたのだと勝手に思う。式年遷宮にしろ日々の神祭りにしろ、或いは新年の参詣、人生の節目節目の神参りにしろ、それが代々延々と続いていることには唯に人間の側の伝統尊重などと言った意思や都合のみによるのではなかろう。それは全宇宙の瑕疵の浄化の為に残されているのだ。
 パウロなる人物はそのロマ書の中で”人は律法の行いによるのではなく信仰によって義とされる”と言って、真実をはぐらかした。信仰に裏付けされての律法の行いは必要でありそのどちらが欠けてもいけないのである。木はその実によって実態が判別される。型をおろそかにした自己流の”信仰”が”まっとうな良識・常識”を見失い、十字軍、百年戦争、三十年戦争、異端審問、世界大戦、人間奴隷化資本主義経済などを生み出したではないか。
 一方、上記黙示録3章に関して、12章が非常に気になる、大変危惧している。曰く”かくて龍はおのが地に落とされしを見て男子を生みし女を責めたりしが、女は荒野なる己が処に飛ぶために大いなる鷲のふたつの翼を与えられたれば、そこに至り、一年、二年、また半年のあいだヘビの前を離れて養われたり。蛇はその口より水を川のごとく女の後ろに吐きて之を流さんとしたれど、地は女を助け、その口を開きて龍の口より吐きたる川を呑み尽せり。龍は女を怒りてその裔の残れるもの、即ち神のいましめを守りイエスのあかしを持てる者に戦いを挑まんとて出でゆき、海辺の砂も上に立てり”
 国を動かす力のある人々、その役割を担う人々はこれをよく考えていただきたい。現代の思想、それはつまりキリスト教、特にピューリタンの思想に毒された・・・その起こりはパウロなる人物を使って巧妙に人類を騙そうとした何者かであるが・・・思考方式を持つ人々は上記のような見方を一笑に付すかもしれない。しかし、侮るなかれ、侮るなかれ・・・。
 天皇陛下に指図する、日本列島は日本人のみのものではないなどと言う、手下を大勢引き連れて見せびらかしに行く、オウム、その他国民をコケにする様々な不義、これらの非常に多くの”人為的事象”について神は天変地異によって警告を発し、本来的日本人の覚醒を促してておられないだろうか。

2015年の夏、少し理解が進んだ。龍の『口より吐きたる川』とはイアンフが・・イアンフが・・と嘘八百を世界中で言い散らかす朝鮮人のその言葉の、南京が・・南京が・・とこれまた有りもしないことを言いふらす支那人のウソの河、そしてこれに便乗して見たわけでもないことを罵詈雑言言いふらすメディアとか言う穢れたカエルのような存在、であろう。地はそれを飲み込む・・・まさに吸い取り紙に吸われるように効果を発揮しない。海の砂の上に立った・・・とは、つまり尖閣問題、東シナ海ガス田問題、南沙諸島問題であろう。こう考えると旧約のエゼキエル書に言う”マゴグのゴグ”とは特亜三国のようである。

忘れられないアドバイス

2012年06月19日 12時10分36秒 | 日記
 妻の父は自民党所属の県議で、県会議長など務めた。私が係長になったときその父が『・・君、部下を持ったら耳に入れるより口に入れろ』と助言した。あいにくまもなく退職してしまったのでその機会がなかったが私はこれが人間と言うものを実に鋭く洞察した言葉と思って部下を持つ息子に伝えた。また身内に地方の役人が居たが期せずしてこれを地で行っていた。大きい声では言いにくいが効果絶大。このような事を侮ってはならない、人間とはそのようなものである。”あなたは園のどの樹から実を採って食べてもよい”と人間を創造した神が既にこの深遠な洞察をバックアップしている。
 大きい会社を退職して自営業の真似事を始めたがそれを指導してくれたのが表立ってどうこうではなかったが”そのスジの気配”ある人だった。こっちで言うこととあっちで言うことが違う、本気で怒るとどうなるか非常に恐ろしい、人だったがこの人もまた人間洞察の鋭い助言をしてくれた。”貧乏しとる時こそ身なりをバッチリ整えよ、誰もおまえの中身に頭は下げない、お前の背広に頭を下げるんじゃ”、”靴だけは手を抜くな”等、であった。”どういう人がいい友達ですか”と聞いたら”そりゃあ決まっとろうが、ゼニの要る時にすぐ用立ててくれる奴じゃろうが”・・・なあるほど、であった。裏街道人生だったので社会保険にも年金機構にも参加していなかった。そのため死の病に伏した時、支払いに窮した。私が立て替えた。一本取られたわけである。おもしろい数年であった。なくなってからもしばらくは夢に出てきて冷や汗寝汗をかいた。
 こういう思い出が実の家族に関してあればどんなにいいだろう。過ぎ去った過去の栄光、家柄自慢、愚痴、泣き言、社会への侮蔑の言葉、不平ばかり聞いて育った。つまり私の所有するカードはその類であったので私の人生もまたそのようなカードでつずり合わされ学歴と努力の割には何にも残らない人生だった。若い人々は自分が恵まれないと仮に思うならどういうカードを持っているかいちどポケットの中を探ってみるといい。
 

 

オウム事件

2012年06月17日 09時49分27秒 | 日記
 実はこのブログは発言が力を持つ人々、例えば政治家、治安維持に携わる人々、例えば公安警察、幹部自衛官などに読んでもらえないかと思って書いている。蚕食にしか過ぎないしカルト教団に於ける学習を通じてではあるが”聖書の記述と時代の動きの関連”を考えるようになり、ふと”もしかしたら!”と閃いた事を覚えとして書き留めている。
 オウム事件は最後の逃亡者が逮捕されて一応の節目を見た。しかしオウム教団の残滓は未だ市中にあり、型を疎かにして論に奔る頭に血の上った人々の多い現在、油断はならないと思う。
 見えるものだけで解釈し、言葉に表現出来る世界だけであの事件を解明しようとしても不可能であろう。昨夜オウムの一連の記録映像を見て、あらためて黙示録12章13節以降が脳裏を去来する。少し長いが引用しよう。”かくて龍は己が地に落とされしを見て男子を産みし女を責めたりしが女が荒野なる己が処に飛ぶために大いなる鷲のふたつの翼を与えられたれば其処に到り一年、二年また半年のあいだ蛇の前を離れて養われたり。ヘビがその口より水を川のごとく女のうしろに吐きて之を流さんとしたれど地は女を助けその口を開きて龍の口より吐きたる川を呑みつくせり・・・”
 つまりあの組織は聖書に記載されている、”エバを騙して本来完全に創造されていた宇宙に瑕疵を介在せしめたある存在の始末とその瑕疵の修復の行程・計画”を反故にしようとの魂胆で、その計画に於いて重要な位置を占めることとなる日本と言う国を転覆する手段に使われた、と私は考えている。その”女”が日本ではないかと言うことはこのブログ中の何処かに書いた。
 これが馬鹿げた妄想と言うべきか、或いは!と思うかは読まれる人の自由である。しかし考えてみたまえ、昨年来この事件が急速に閉じられたではないか。これが或いは”油断させる意図”によるのではないかと邪推癖のある私は安心できない。

新約聖書

2012年06月17日 09時11分39秒 | 日記
 新約聖書の中のパウロの書簡は殆ど読まない。”何となく臭い!”と前々から感じているからだ。福音書の中でイエスさんが語る言葉の簡明さ、直接心臓をわし掴みにする言葉に比べて余りに晦渋難解で如何にも如何にも、と言う感じがする。哲学者風、宗教学者風だ。神のご意思をそのようにひねくり回すのは僭越だ。
 エデンに於ける神の言葉、申命記、レビ記、箴言、等、どれをとっても具体的且つ単純明快、サルにも解る言葉である。それが急にパウロになると所謂”学のある”者にしか解らないような難解な言い回しになる。”ここには何か怪しいものがある”と私は感じている。
 饒舌は饒舌であること自体が騙しを巧妙に内包することを白状している。ロマ書10章に言う”人は心に信じて義とせられ云々・・”と黙示録3章9節に言う”汝少しの力ありて我が言葉を守り・・”とは大分ニュアンスが違う。
 ”行い”即ち”形”を軽んじ”論”に走るところにワナが仕掛けられている。過日、街中でふと立ち止まった占い師が言った、”目と胸に飛び込むことは信用できるが耳に入る事は信じてはいけない”と。カルトとはそういうものだ。
 剣術の奥義書は要するに形を示している。相撲も四十八手と形がある。昔ある短距離走者が自分にとって理想的な動きをゆっくりゆっくり繰り返すのを見て咄嗟に閃いた。楽器の演奏も然り、指と脳に型を覚え込ませる。型こそ奥義である。
 人間の正しいありようもまたその通りである。私はこの点で”神道”を真の宗教の本来の姿を保っていると評価している。・・・ ”汝少しの力ありて我が言葉を守り・・”だ。難解な饒舌を弄せず単純明快に神居ますものとして型を守り続けているその様子をおそらくパウロに騙された人々はバカにするだろうが、まさにそこに知らせてはならない者共には知らせない宇宙の秘密が隠されていると思う。