夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

邪悪な”存在”

2012年06月16日 10時41分57秒 | 日記
 オウム信者で長年逃走していた女性の親御さんの手記を昨日見た。同じ親の立場で推察、その苦悩と失意、娘に対する愛惜と後悔、如何ばかりかと不覚にも落涙。自身、長年カルトに身を置いて家庭崩壊、息子たちを奈落の底に突き落としかねなかった愚か者であった経験からあのような組織を操る邪悪な存在と言うものについて書き留めておきたいと思う。
 もし、エデンに於けるエバが佐世保弁で言うところのテレンパレンした馬鹿女であったら、ノーテンキ、今楽しければそれでいいじゃない!面倒な事言うのは煩いからよして頂戴、あっちへ行け、うるさいわね!!の女だったら、ある邪悪な存在はどんな手を思いついただろうか?幸か不幸か、エバは思慮深い真剣真面目な女だった。だからある存在は”神は本当にアノ樹の実を食べてはいけないと仰ったのですか??!”と疑問を投げかけた。”そうじゃないんじゃないですか、アレを食べるとあなたも神のように賢くなる!と言うことを知っておいでだからもしかしてそれがイヤでそう仰ったんじゃないでしょうか?”と少し開いた隙間にすかさず楔を差し込んだ。こうして真面目なエバは真剣真面目故にこそ、最も重要な要点をはぐらかされて禁忌を犯した。
 カルトに居てその大部分が極めて真面目な人々であることに気が着いた、一部に功利的な動機の人々も居るようだし女性の中の多くに、夫から余り顧みられず淋しく心細い思いをしていたらしい人々も居た。ある邪悪な存在はこういうところに付け入るのである。”そうですね、あなたが心配しているように今のままでの考え方、政治のあり方、人々の生き方などでは真面目に生きようとする市井の人々には日が射さず、やがて世界もドン詰まりになるかもしれませんね”などと”人の心に楔を打ち込む”、そして深い闇の底に引きずり込むのである。
 ミーチャンハーチャンはこういう世界に余り居ない。殆ど真剣真面目な人々であるがその考え深さが実はワナになるのだ。考え深さが地に足を着けていない、ただ考え深い、”それはそうだがそうでもないのだって、そうも言えないものだってあるよ!”の考え深さではないのだ。そこには何者かに対する敵意が隠れてもいる。敵意に起因する考え深さと言おうか。
 ここでまたレビ記を思い出す。日常の些細な行動様式、礼拝様式などを”具体的に””事細かに”規定している。日本の伝統もまた日ごろの立ち居振る舞い隣人地域社会での在り方等に細かな不文律がある。”一体何の意味があるのか??”と考え深い人は問う、そしてそこをふみはずす。”どうして玄関で履物を脱いだら出船に揃えておかなければならないのか?”、”初詣して何の意味があるのか、あれは無意味なはしゃぎではないのか”、”なぜ食事の前には『いただきます』と言わなければならないのか、誰に言うのか”・・・などとあらゆることに言いがかりをつける。実は考え深い傾向はこの同じフィールドに存在する。
 『そうだからそうなんだ、昔からそうなんだ、議を言うな!』で育った人は考え深くてもこのフィールドには居ない。言語化できなくても『これは怪しい、こいつは臭い』が”勘”でわかるようになっている。何事も基本が大切と言うが、日常の立ち居振る舞い行動様式、先祖代々のしきたり等が”全うな常識と識別力、勘”を育てる基本動作であることを知るべきである。今の日本はそういう観念が薄い。進歩的文化人とか教育者とか個人と組織の区別さえ出来ぬ政治道楽者などがこの特別な存在である国を損なおうとする”ある邪悪な存在に憑依”されてその口から黙示録に言うカエルのような言葉が跳び出す。

十字架のあがない独断解釈

2012年06月15日 08時22分34秒 | 日記
 『私のしあわせ』が下心にあって読む限り聖書は閉ざされた本である。その執着を捨てる時徐々に見え始める。宇宙の原理は”全ての事象は『平衡』に向かって遷移する”である。その”平衡の状態”とはどんなものかは創世紀の冒頭に書いてある、曰く”神これを善しと見たまへり”である。ここに茶々を入れたのがサタンなる存在でありそれがどういうものであったかは聖書のどこかに”ツロの王よ・・・”の記述で暗示されている。シェークスピアの描いたマクベスはこれの人間世界版だろう。つまり分限を超えた僭越、旧約聖書にあるアカンの場合もコラの場合も同様であろう。
 ここで”罪”と言う言葉を使うとまた解らなくなる。人はこの言葉を聞くとすぐに所謂道徳的な違反、所謂国家の法に対する違反を想定し、思いはそれに固着し、意識はだんだんずれて行く。あるいはこれも”宗教の騙し”かもしれない。『瑕疵』と言えばピンと来る人が多かろう。つまり創造の第6日に人を創って地上の管理を命ぜられ、創造の全ての働きを終えて”甚だ善かりき”と満足し、第7日に安息に入られた。そこへ瑕疵が入り込んだ、最初の人がその片棒を担いだ。
 ”甚だ善かりき”に生じた”ゆがみ、キズ”は修復され元の平衡に戻らなければならない。僭越を以ってそそのかした者は処罰すれば済むことであるがそれによって生じた宇宙のゆがみ、キズはそれを来たした者、つまり人間によって修復されなければならない。ところが片棒を担いだ者つまりアダムでありエバであるが、その家族に資格は勿論、しくじったと言う性格遺伝によって的確者が一人も出ない、つまり十字架の死に至るまで忠誠、神の側からブレない、は不可能ということだ。
 ここに人間が寸毫もエラそうな事を言えない”神の恩寵”がある。それが第二のアダム、イエス・キリストであった。イエスさんはあなたの極楽往生於天界安穏生活もしくは地上永遠安楽生活、或いは困窮生活脱出祈願受付けのために来られたわけではない。無論、”打ち捨てられた羊のような”人々に憐れみを感じて、”思いと心が現象化するのが神に創造された世界の原理、場の力学である”と手を変え品を変えて説明されたがだァーれも悟らなかった。わずかに百人隊長と”子犬も床に落ちたパンの屑をもらうのです”と言った女だけだったか。
 神にとってはせっかくの創造世界に入り込んだ瑕疵を除かなければならないのだ。そのおこぼれにあずかるのが最初のアダムの子孫である我々人間なのだ。では何故イエスさんの時からもう2000年も経つのに何も変わらないのか?と誰か言うだろう。知恵の樹の実を食べた結果がそのようになるのかを骨の髄まで、身に沁みて味わえ、と言うことだろう。囲碁で”味を残すな”と言うがそれだろう。だからダニエル書12章に”国ありてより以来その時に至るまでかかる艱難ありしことなかるべし”と書かれている。

個人と集団

2012年06月08日 18時23分28秒 | 日記
 福音書の中でイエスさんが言う、・・『私の名によって集まる人々の中に私も居る』と。これは次のようなことを暗示している。無論イエスさんはその意味で言ったのではなかろうが・・・・。
 ある考えや観念を持つ人々が集団を形成するとその構成員一人ひとりの最も内奥の動機を探った何者かがその集団に固有の風を吹かせる、つまり憑依する。かくして、表面善意、或いは真剣な人々が集団になる、或いは加入するとその集団に吹いている風に罹患して総体として不適切な行動、決定、暴走などに赴く。
 オウムの闇、連合赤軍事件などと言う了解不能の事件についてはこういう観点から検討することが必要であろう。もしある種の試薬みたいなものがあるとして、それを天空から地球上に落とすとトンデモナイ生き物が姿を現すかもしれない、あらわすだろう。こういう点について人々は余りに無関心で無防備だ。
 その無防備と言うよりかアホとしか言い様のないのが例の『友愛』である。それは個人的にはあるだろうが集団にあっては存在し得ない。個人的には紳士で高尚な芸術に造詣が深く良き友人。隣人になり得る人も一旦集団の一員になれば行動は異なってくる。そこを洞察できない愚かな人が政治家を自認している。幼稚な国日本、泣きたくなる。そういう政治家集団に一票を投じたバカも沢山居る。そして今、蒔いた種を刈り取らされている。うんざりだ。

ユウフラテス河とバビロン、メディア・ペルシャ

2012年06月06日 09時35分13秒 | 日記
 先の記事デユウフラテス河を堰き止めてと書いたが、”流れを変えた”、であったかもしれない。このくだりはものみの塔で習った。”流れを変えた”が正しいように思う。つまり今日、人々は資本主義経済のいかがわしさに気着き始め、だんだんそれを支持しなくなっているように見受けられる。
 卑近な例では例えばテレビの番組を見ていれば人々が田舎、田舎暮らし、農、自然、古いものへの郷愁、伝統文化の再評価、等、都市の暮らしに飽き始めている現象が感じられる。現代の都市、とは即ち資本主義、金融資本主意義が形を現しているものであろう。

ハルマゲドンについて独善解釈

2012年06月06日 08時34分01秒 | 日記
 どちらかと言えば自分の洞察の覚えとして書いておく。黙示録等、聖書の予言的記述についての記載はこれと同様に”推論の覚書き”であり、言いっ放しとの誹謗はあるかもしれない。
 黙示録16章12節に”第六の御使いが持った鉢を大いなる河ユウフラテの上に傾ければ河の水涸れたり”とある。古代のバビロンはユウフラテス河の中にあり、難攻不落と言われた。ところがメディア・ペルシャはその河を堰き止めて水門から城郭内に侵入した。今日、大いなるバビロンと称されている資本主義経済システムが”水”即ち人類の支持を失いつつあることは報道や日々の生活からも薄々感じられよう。やがて人々がこれを信頼しなくなる、つまり”水が涸れる”時が来る、或いは既にそこまで来ている。水は最早くるぶし辺りまで退いているかもしれない。
 13節以降に龍、獣、ニセ預言者の口から三つの穢れた霊が出て来て”全能の神の大いなる戦争の日”に備えて全世界の王たちをハルマゲドンと言うところに集める、と書かれている。ハルマゲドンとはハル・メギド、つまりメギドの山、古代の交通の要衝であって天下分け目の合戦の舞台であった由、さしずめ日本では”関が原”であろう。そこで意見、思想、主義、利益等を異にして水と油のような二大勢力が支配権を廻って闘争した。
 聖書の神の観点からすればそれは”地上のどこか、場所”ではない。そうではなくて”事態、事象”である。聖書の主題がエデンに於ける禁忌の宣言”智慧の樹の実を食べてはならない、その樹に触ってもいけない・・”を想起すればその事象、事態とはこの禁忌に関係してその最終決着がそこで図られることを暗示している。
 その事態・事象とは何か?黙示録13章には海から上がって来た獣が描かれている。その頭の上には神を汚す名がある、と書かれている。国際連盟、国際連合は何の為に組織されたか?”海”即ち人類によって世界の恒久平和の為に組織されたのではなかったか?国連は何を言っているか?要約すれば”人類の叡智と理性、善意を結集して地上に恒久的な平和と繁栄を実現しよう”と言っていないか?”諸国民の平等の権利や安寧”を標榜していないか?殆ど全ての人々がこの事象を”高邁な理想、人類の進化の証”と認識していないか?
 つまりそこ、”神を汚す、冒涜する事象や組織、行為”に意見の一致がある。地上のあらゆる政治組織、宗教組織、その他もろもろが”叡智と善意を結集して恒久平和”と言う思想に集結する。そしてその集結する人々、”水”の上に居座っている者が”淫婦”、即ち現代の経済システムである。
 神が人と戦争したことが過去に何度かあった。聖書の記録によれば、神の武器とは人間の武器とは異なり疫病や自然現象、錯覚、同士討ちのようなものであった。やがてそれが起こる、黙示録17章には”淫婦”を”獣”が喰らい尽くす、とある。
 欲張り共が資本主義経済の仕組みを”マジ術”として富をかき集めた結果、地上の大多数は貧乏人になった。随ってモノを買えない、結果として資本主義は軋みはじめ、やがて動きを止める。政治はそれを廃して別の仕組みを発案する、ネサラが本当の話ならそれかもしれない、・・淫婦を喰らい尽くす・・
 いずれにしろギリシャ危機に始まる欧州激震が大津波となって世界に波及し、獣、つまり人類を統治する機構は現行経済システムを廃止し、随ってまた統治の機能を失い、世界はカオスの状態に陥る。統治機構もそれに迎合する言動を行っているもの、即ちニセ預言者も、それを崇拝するものたちも”生きたまま火に投げ込まれる”、・・・在りはするが誰にも相手にされない存在となる。
 この状況は多分、ダニエル書11章に言う北の王が海の間に壮大な天幕を張っているとき・・・つまり非常に近い未来或いはもしかして今年中にも欧州発の経済危機と衝撃波、ドミノ現象による世界経済破綻とそれに起因する暴動、混沌として突如姿を現すかもしれない。そしてその瓦礫の向うにダニエル書12章の冒頭にある大いなる君ミカエルが立つのを我々は見るのだろう。