つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

尖閣諸島を守ってきた日本人

2021-06-15 | Weblog

伊勢雅臣氏メールマガジンより

1.3.5メートルの波に叩きつけられて10時間

 葛城奈海(かつらぎ・なみ)さんが初めて尖閣諸島を自分の目で見たのは、中国漁船が海上保安庁の巡視船にぶつかってきた事件[JOG(701)]から、1年と少し経った平成23(2011)年11月1日のことでした。新刊『戦うことは「悪」ですか』[葛城]で、こう記しています。

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 午前三時、石垣島の南側にある新川漁港から出航。バラバラと雨が降ってくる。・・・ほどなくすると吉本船長から「時化(しけ)てるから予想よりだいぶ時間かかるよ」と言われる。

 三〇分ほどで外海に出ると、そこからの波は容赦なかった。波高三.五メートル。一波ごとに船体ごと海に叩たたきつけられるので、「木の葉のよう」を通り越して、まるでビニール袋の中に入った小石のようだ。ビニール袋ごと、スナップを利かせて海面に打ち付けられるような感じなのだ。

漁船は人に優しくできていないことを文字通り痛感した。そもそも座席がないから、船室内にディレクターチェアのような椅子を持ち込んでいる。だが、その椅子は船体に固定されていないので、一波ごとに吹っ飛ばされそうになる。そうならないために、どこかにしがみつきたい。

しかし、残念ながら、握る場所もない。仕方なく横にある船窓のサッシを握ろうとするのだが、これまたそんな空間は存在していないので指で挟(はさ) むようにして必死で摘(つ)まむしかない。[葛城、p27]
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 こういう状態が10時間ほども続いて、ようやく尖閣海域に着きました。こんな思いをしながらも、葛城さんは尖閣海域に何度も足を運んでいます。平成26年までの3年ほどの間に15回。途中で引き返さざるをえない事もあり、出航回数は20回にもなると言います。その行動力には敬服します。国を思い、憂える思いの強さからでしょう。

■2.「なんという倒錯した光景だろう」

 葛城さんは、これだけ頻繁に尖閣海域に出かけているので、現地での実体験を具体的に伝えてくれています。平成24(2012)年9月に尖閣諸島が突然、国有化されました。翌年に尖閣海域に行った際には、こんな体験をしました。
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 翌四月に集団漁業活動として一〇隻で訪れたときには、・・・中国公船が八隻で領海に侵入してきた。このころから、中国公船はわれわれとの距離を詰めてくるようになった。公船が接近してくると海保は、「危ないですから、逃げてください」という。

おかしな話だ。尖閣は、日本の領土領海で、領土問題は存在しないのではなかったか。であれば、なぜ、「われわれが守りますから、みなさんは安心して漁をしてください」と言えないのだろう。・・

 そして、忘れもしない、七月一日未明。四隻で出航し、いつものように夜明け前に南北小島および魚釣島前の海域に達した。・・・ほどなく海保から「中国公船が接近していますので、気を付けてください」と連絡が入った。

 その言葉が終わるか終わらないかというタイミングで、大きな中国公船「海監51」が視界に入り、目の前、魚釣島すれすれのところを悠々と横切っていくではないか。そんな状況であるにもかかわらず、海上保安官たちは、背後の中国公船よりも目前のわれわれ漁船に向かって、「一海里以内に入らないでください」を連呼しているのだ。

続いて、このひと月前に鳴り物入りで就役(しゅうえき)した最新艦「海監5001」も大きな顔で島の前を横切っていく。・・・付近には「海監23」「海監49」もいる。・・・

魚釣島に一番近いのは、中国公船、その外側に海保の巡視船、その外側に海保のゴムボート、そして私たち日本漁船。この状況を第三者が客観的に見たら、魚釣島はどこの国の島に見えるであろうか。日本の海のお巡りさんが日本人の接近を阻止している内側で、中国公船が私たちをあざ笑うかのように何度も行ったり来たりしているのだ。

 なんという倒錯した光景だろう。誰がどう見ても、魚釣島は中国の島にしか見えないはずだ。[葛城、p40] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■3.尖閣に灯台を自費で建設し、維持してきた日本青年社の義挙

「国土や国民を守る気はあるのだろうか」と疑問を抱かせる政府の対応をカバーしてきたのが、民間の志ある人々です。それらの人々の活動を、葛城さんはこう記しています。
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 昭和五三(一九七八)年四月、百隻を超える中国の武装漁船が尖閣諸島海域に侵入し、一週間にわたる威嚇(いかく)行動を行ったことがあった。このときの政府の対応に危機感を抱いた日本青年社が、同年八月、魚釣島に上陸し灯台を建設した。・・

 以後、毎年、同隊の隊員が上陸して電池の交換、保守、維持管理を行ってきたという。そうした活動によって、日本の領土や主権が主張できたばかりでなく、周辺を航行する船舶と漁民の安全を守ってきた。

 実際、灯台設置から二年後の昭和五五(一九八〇)年八月には、台湾から神戸に向かう途中だったフィリピン船籍のMAXIMINA STAR号が台風によって遭難したものの、灯台の灯りを発見。灯りを頼りに灯台前に座礁(ざしょう)し、上陸隊の宿舎に避難して、そこに蓄えられていた食料により、乗組員二三名全員が無事救助された。[葛城、p46]
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 こうした実績ある灯台を、平成2(1990)年に海上保安庁は正式な航路標識として認めましたが、外務省の「時期尚早」の声で、「国有灯台」として国が認知し、維持管理を引き継ぐまで、27年を費やしました。
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この間、体を張り、毎回百万~二百万円もの支出を重ねながら五〇回以上にわたって上陸、灯台建設、補修費と合わせると数億円以上をかけて日本の領土を守る礎(いしずえ)をつくってくれた日本青年社の行動は感謝と称賛に値すると私は思う。が、右翼団体というフィルターをかけたメディアも、この義挙を正当に評価、報道してこなかった。

 毎回、尖閣に行くたびに最初に迎えてくれるのは、魚釣島のこの灯台の灯りだ。明滅するひとつの灯が、「尖閣に帰ってきた」と感じさせてくれる。国の妨害に怯(ひる)むことなく灯台を建設、保守点検し続けてくださった先人たちへの感謝の思いを忘れずにいたい。[葛城、p47]
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昨日いただいたすもも


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