草むしり作「わらじ猫」後10
大奥のお局さま (悪魔のひと突き)
―この様子では明日から時化がしばらく続きそうだな、また魚が値上がりするだろう。
生ぬるいような風に吹かれて、思わず太助が呟いた。それから七つ口の門を潜って帰路についた。
太助が長年棒手振りの魚屋として培ってきた勘は見事的中した。前夜から降り始めた雨は次第に雨脚を強めて、翌日は強い西風にあおられて江戸の街に情け容赦なく吹きつけた。大奥の中庭も例外ではなく、宴のために用意された設えを台無しにした。
湯から上がった若君はいつものようにお局さまの部屋にやってきた。少し頬が赤いのは湯殿の御端下に昔話をせがんで長湯しすぎたのだろう、お局さまの差し出した重湯をおいしそうに飲んでいる。けっきょくお局さまがあれほど力を入れていた観月の宴は、中止になってしまった。
若君はひとしきり湯殿での話が終わると、縁側に寝転んで草紙本を開いている。桃太郎は若君のお気に入りで、桃太郎が鬼を退治する挿絵を毎日飽きずに眺めている。もう毎日のように同じ本ばかり開いているので、本は擦り切れて汚れている。他にも本は沢山あるのだが、他の本には見向きしない。一つのことに集中するのは今でも変わりが無い。
腹ばいになりフンフンと鼻歌を口ずさみながら、上に向けた両方の足をホイホイと調子をつけて動かして拍子をとっている。いったい何の歌なのがさっぱり分からないが、こうしているときの若君はたいそう機嫌がよかった。
猫がやって来るのは決まってそういう、若君の機嫌のよいときだった。仔猫を産んで以来やって来ることがなかったのだが、今日は久しぶりにやって来た。仔猫の乳離れも近いのだろう。猫は若君の横に座ると、開いている本を覗き込んでいる。
まだまだ字を読むよりも絵を見ているだけなのだが、それでもバタバタとそこいら中を走り回っては、紙をビリビリと破いていたころに比べれば、だいぶ落ち着きが出てきた。お局さまもひと安心といったところだ。
「こら、まだだ」
どうやら猫のほうが堪えきれなくなったようで、開いている本の上に前脚を乗せ腹ばいに横たわった。若君は猫の脚を払いのけ挿絵に見入っている。
―それにしてもずいぶんと熱心なこと。
お局様は若君の鼻歌を聞きながら、思わず口元を綻ばせるのだった。
心配していた若君も、少しず落ち着きが出て来た。ほっと一安心したものの、今度は上様の側室のことで思い悩んでいた。観月の宴にこじつけて側室を選ぼうとしたが、けっきょく宴は嵐のために中止になってしまった。あれこれと奥女中の中から上様好みの細身の色白美人を娶(めあわ)わせているのだが、肝心の上様のほうがのらりくらりと話を反らしてばかりいるのだ。
「このままでは大奥の威信にかかわります」
業を煮やしたお局様が強気に出たせいか、それ以来なにやかにやと理由をこじつけては中奥泊まりが多くなり、大奥への足は遠のくばかりである。もう一度お鈴廊下の鈴を鳴らしてもらわねば。
―何か良い手立ては無いものだろうか。
思案にふけるお局さまは、いつの間にか若君の鼻歌が止んでいたのに気づいた。
「まあ、若君………」
本を見ているうちに眠ってしまったのだろう。うつ伏せになったまま顔を畳の上に押し付けて眠っている。その横で猫も同じようにうつ伏せになって、揃えた前脚の上に頭を乗せている。開け放された縁側の陽だまりは早くもかげり始め、庭先からは冷たい風が吹いてきた。開いたままの本がパラパラとめくれた。リーンリーンと縁側の下から虫の鳴き声が聞こえてきた。
「これ誰か………」
そう言いかけて言葉を呑み込んだ。いやいやこのままにしておこう。下手に起こそうものなら後が面倒だ。機嫌が直るまで半時は泣いている。
そういうところは上様の子どもの頃にそっくりだった。まったく似なくていいところが似るものだ。
それにしても少し肌寒くなってきたが、風邪でも召されては大変だ。部屋の障子を閉め、上に羽織っていた打ちかけを脱ぐと若君にそっと着せ掛け、開きっぱなしになっていた本を閉じようと手を伸ばしたときだった。
「半腰の態勢が一番いけません。お気をつけ下さい。最初よりも二番目のほうがもっと痛いと申します。くれぐれも半腰にならないようお気をつけください」
くどいように何度何度も半腰になるなと言っていたおさじの言葉を思い出したが、すでに遅かった。腰に一突き、稲妻が走り抜けたようだった、気の遠くなるような痛みは、息をするだけで何度も襲ってきた。もう声も出せねば、動くことすら出来なくなっていた。
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