草むしり作「わらじ猫」中2
㈢大久保屋の大奥様②
弥助編2
あの日は空き腹を抱えて、借金取から逃げ回っていた。捕まったのは、身を潜めていた長屋の奥の小さな社の裏から、水を飲みに出たときだった。じめじめとした社の裏に身を屈めて、賭場のやくざたちをやり過ごしたすぐ後だった。
井戸端では人のよさそうな裏店の女房が洗い物をしていた。洗い張りの内職でもしているのだろうか、大きな桶に手を突っ込んでジャブジャブと威勢よく洗濯をしている。よく見るとまだふさふさとした産毛の生えた仔猫たちが、女の頭や肩にまとわりついていた。中には太りじしの女の尻で潰されそうになったのか、尻の下から飛び出してくる奴もいる。
朝から逃げ回っていることや腹の空いたことも忘れて、そのようすを眺めていた時だった。ポンと肩を叩たれたのは。
「お兄さん遊んでいかないかい」
茣蓙(ござ)を抱えた夜鷹が袖を引いた。
「そうかい、また今度ね」
弥助の顔を覗きこんだとたん、後ずさりながら去っていった。
どれくらい時間が経ったのさえも分からなかった。川面に船宿の明かりがチラチラと映り、ドクドクという鼓動と一緒に痛みが体中を駆け巡った。すれ違う者たちが、目をそらして自分を避けていく。
「ざまねぇや」
口に溜まった唾を地面吐きつけると、また口の中が生臭くなってきた。ジャリジャリとした砂の感触は何度唾を吐いても消えなかった。もう一度生臭い唾を吐こうとしたときだった、目の前に猫がいた。
「テメェ、タマだな」
猫は後ろ足で気持ちよさそうに喉首を掻いていた。弥助を見ると、尻尾をピンと立ててスタスタと歩いて行った。
「チクショウ、待ちな。今度こそ川に放り投げてやるから」
元を正せば賭場通いが止められず、店の売り上げをごまかした自分が悪いのだが、何もかもがみんなあの猫のせいに思えた。賭場の親分の前に引きずり出され、さっきまで殴るけるの仕置きを受けていたのだった。
「くそぅ、あの猫さえ、あの猫さえいなければ、もっと上手く立ち回れたのに」
薄らいでいく意識のなかで、弥助は必死に猫を呪っていたのだ。
猫は橋の欄干の上に登ると、毛繕いを始めた。片方の手を舐めてはごしごしと顔をしごいている。それが弥助にはおいでおいでとしているように見えるのだった。
「馬鹿にしやがって、じっとしていろよ、そうだじっとしていろよ」
両手で猫を捕まえたと思った瞬間、体が空中を飛んでいた。
「これで救われた」ぶくぶくと水の中に引き込まれ、遠ざかる意識の中で弥助がそう思ったときだった。髷を思い切り掴まれて水面に引き上げられた。
弥助の削ったかつお節を、タマは旨そうに食べている。満月の中に大久保屋の屋根が浮き上がって見えるような、静かな夜だった。
もう寝たのだろうか。いじめられてはいないだろうか。古くからいる女中に叱られてベソをかいていた、子守の子どもの赤い頬っぺたを弥助は思い出していた。
そのときだった。タマが食べるのを急に止めると、総毛立てて身構えた。何かいるのだろうか。あたりを見回した弥助は、人の足音に気づき、とっさに用水桶の陰に身を潜めた。
満月の中に二人連れの男たちが見えた。一杯引っ掛けた後に次はどこに行こうか、そんな遊び人のようにも見えるのだが。どこか物腰に油断のならない胡散臭さが漂っている。そういえば昨日もこの当りですれ違った二人組みだ。タマはますます総毛立てて、低く身構えている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます