一番好きな食べ方
田舎の家はどこもそうなのだが、生家の屋敷の回りは広くて、子どもの頃には柿や枇杷などの果物もたくさん植わっていた。庭の横には深い谷川が流れていて、栗の木が一本その谷川の淵に植わっていた。毎年いっぱい実をつけるのだが、ほとんどが川に落ちてしまって、手に入るのはほんの少しだった。
それでも運動会には必ず茹でた栗とまだ青い早生みかんが登場した。たぶん親がその日のために拾っていたのだろう。青いみかんが酸っぱかったことと、栗の皮をむくのが面倒だったことは覚えている。
当時は運動会におやつと言ば、栗とみかんだった。栗は鬼皮を歯で食い破り、渋皮を親指の爪で剥がして食べた思い出がある。以来栗はそうやって食べるものだと思い込んでいた。
だから茹でた栗を半分に切って、中の実をスプーンですくって食べる方法を知った時には驚いたものだ。こんな食べ方があったのかと、まさに目からうろこだった。
私がこの食べ方を知ったのは、三人の子どもの子育てに追われている頃だった。上の子が幼稚園で真ん中の男がやたらと手がかかり、赤ん坊の下の子はいつもおんぶしていた。
その頃から母の送ってくれる荷物の中に、栗が入ってくるようになっていた。山の畑だったところに植えた栗の木が、実をたくさんつけるようになったのだとか。たぶん食べ方も母に教わったのだろう。
母の荷物はお米と一緒に野菜や果物、時にはお菓子も入っていた。とてもありがたいにだが、頻繁に送って来るので持て余してもいた。カボチャや玉ねぎなどできた時にひと箱送ってきて、保管する場所もなかった。
ありがたいのだが、はっきり言って迷惑な時もあった。そんな時だった、栗が大量に送られてきたのは。栗ご飯にするにしても量が多すぎるのだ。文句かたがた届いた連絡をすると、食べ方を教えてくれたのだった。
教わった通りにすると、なるほど食べやすかった。その時栗がこんなに美味しいのかと初めて思った。大量にあった栗もほとんど私が食べてしまった気がする。
当時は疲れもイライラも怒りも、すべて食べることで発散させていた。ところがある時下の子を膝に座らせて遊ばせていたのだが、気がつくと下の子が膝から滑り落ちてしまったことがあった。
お腹が邪魔をして膝にうまく座れないのだ。そんなにお腹が出ているかとショックを受けていると、子どもの方はいつものことだという顔をしてまた膝の上に座りなおした。いつのこうなのかと、改めてショックを受けた。
これは毎日の食生活が原因であって、その時送られてきた栗をたくさん食べたからではない。おいしいものも不味いものも、すべて食べ過ぎていたのだ。やはり美味しものこそゆっくりと味わって食べるべきだと、今になって思う。
栗なんかも昔運動会で食べた時のように、手で丁寧にむいてゆっくり味わって食べるのが、一番だと思う。
ただ残念なことに今年その栗の木を伐ってしまった。その後にまた栗の木を植えたのだが、実るにはしばらくかかりそうだ。それまで元気でいなくては。そして出来れば子どもたちにも送ってやりたいものだ。もちろん大量ではなく少しだけ。ゆっくりと味わって食べてほしいものだ。
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