生きることとは何なのか考えてみた。
心臓が動いて呼吸して消化器官が働いて外部から必要な水や空気や栄養を取り入れて身体を維持し機能させ活動させることであろう。しかし、それだけで真に生きていることにはならないと思う。最悪の場合は植物人間になってしまい、将来の生きる可能性はあるものの現時点においては、精神活動は確認する事ができなくて死んでいるのと同様である。人間は動物である。動物とは動く物である。動くことができなくなったら動物として生きることはできない。それでは、何のために動物は動くのか。そこにはある意志が働きある目的を持った意志のもとに動いている。生きる根源はこの自ら湧き出てくる「意志」ではないかと思う。
何にもやることがなくて、ボーっと寝そべって一日を過ごす。
たまには休みも必要で、時々こんな一日もいいだろうと成り行きに身を任す。まるで植物人間である。しかし、これが何日も続くと、身体の奥底からムズムズとエネルギーが湧いてきて居ても立っても居られない状態になる。と言って、当面やるべき事はないし、やる必要性もない事ばかりである。こんな時、私は駆け足をする。とにかくひたすら走るのである。身体が辛くなる呼吸が苦しくなる足が痛くなる身体が熱くなって汗がダラダラ出てくる。それでも走る。そうすると「もうダメだ」という自分と「もっともっと」という自分との葛藤が始まり、最終的には「エイッ」と言う気合いと歯を食いしばる瞬間から「もっともっと」という自分が優勢を占める。
生きるとは、この「もっともっと」という意志力ではないかと思う。
言葉は悪いが、「なにくそ」「こんちくしょう」という気概である。この気概はストレスを与えないと芽生えない。ストレスを与えて初めて「なにくそ」「こんちくしょう」と言う気持ちが生まれる。過大なストレスを与えれば与えるほどその気持ちは強くなるが、あまりストレスが過大になると押しつぶされてしまう可能性がある。駆け足はこれを試すための格好の運動である。限界に達する直前で走ることを止めるのは容易であり、その限界を日々確認することができる。限界が高くなればなるほど生きることに対する潜在能力が高いことになる。
人間の生命反応もこれに似たところがある。
外部からストレスがかかるとこれに対抗して防御反応が現れる。この防御反応により身体は正常に保たれる。過大なストレスにも対応できる十分な防御反応を保持している人が健康な人である。この防御反応は日常から訓練しておく必要があり、訓練を怠ると退化したり異常な反応を示したりする。身体が危険な状態になると「なにくそ」「こんちくしょう」という生きようとする生命反応が芽生え、そのたびに身体は健康で強くなって行くのである。身体を甘やかして養生するだけでは積極的に生きるための生命反応は期待できない。ある程度身体を虐めないといけないのである。
不思議なことに、この生命力は行動しないと生まれない。
ただじっとしているだけでは生まれてこないのである。まずは行動することが必要である。それでも行動を起こさないでじっとしていると、イライラや焦燥感が高じて精神的に不安定な状況になる。現代人のフラストレーションはこれに起因しているのではないかと思う。頭でっかちで行動する前に考えることを優先する人にはいつまでたっても生命力は芽生えない。そして身体と心は遊離するばかりでますますイライラや焦燥感が高じて精神的に不安定になって行く。身体の欲するまま行動することを心がければいいのである。それは自分に対して誠実であることでもある。ただし、野生動物ではないので、必要なことは理性でコントロールしなければならないが、はじめから理性で縛り付けることは止めるべきである。
まずは、行動があることが大切である。
「誠実」と言う言葉を使ったが、「誠」とは「言ったことを成す」と言う事でもある。頭で考えて言うばかりでなく、それを自分で実行してみることが重要である。実行することによりまずは最初の難関が待ち受けており、その難関を突破すればまた次の難関にぶち当たる。これを永遠に繰り返すことが「生きる」ことである。この「生きる」ことを執拗に繰り返すことにより人間社会における地位と役割が築き上げられ人のために「活きる」ことができる。実行することは自分に対して誠実であれば何でもいいような気がする(精神が病んでいれば別だが・・・)。意外とくだらないと頭で思い込んでいるものにすばらしい宝物が潜んでいるかも知れない。名を成すような功績の持ち主であっても最初のきっかけは単純なものであり、やっていることは見方によってはたわいのないくだらないものである。
行動することによって方向性が出てくる。
試行錯誤を繰り返すうちに「何をなすべきか」「何をなさざるべきか」が明らかになってくる。頭で理屈をつけるのはその後でいい。少なくとも自分に対しては説明は必要ない。自分で獲得した「何をなすべきか」「何をなさざるべきか」を他人に説明する時に統一的な理屈が必要になる。万人に認められた理屈が集大成されれば普遍の哲学へも発展するだろう。しかし、哲学とて行動を伴わなければ意味がない。哲学に基づいてこれが実践されなければならない。実践の成果は自分独自の哲学となり、またもや自分流の試行錯誤が始まる。生命の種はいつまでたっても尽きることはない。物理的な限界点に到達して生命の終焉が訪れるまで「生きる」活動は続けられ生きるための戦いが続くのである。
生まれて生きて活きて生かされて、そして死を迎える。
北海道からです。
お邪魔でしたらごめんなさい・・・・・。m(_ _)m
「生きる意味」は、進化論では決して説明がつきません。なぜなら、偶然には意味がないからです。
しかし、その作品を作った人がいるなら、その目的もあります。
時計は時間を計るためにあります。家は人が住むためにあります。
それでは、人間は?神が創造されたので、その目的は明白です。
人(私)はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのだろう・・・?。
この世界の終末はどうなるのか?
私は、若い頃から人生についていろいろ考え、
人間はどこから来て、何のために生きて
どこに向かって生きているのかを問い続けて来ました。
神の存在、人生の意味は何か、いのちと死の問題」など
について、分かりやす聖書の福音を書き綴っています。
どうか、時間のあるとき、ご訪問ください。
思いついたままの駄文ですが、自分の正直な気持ちです。神も仏もキリストもアッラーも私の中に居る感覚です。それらの神に生命を与えられ、その生命を信じて生きているのが現実です。自分の中からこの生命が生まれなくなった時が終焉ではないかと思います。生きるためのストレスが生命を生むことを日々実践してます。
今後ともよろしく。