私は料理をするのが好きで、適当な創作料理を作っている。
職場に独身の若い連中がいる。私が自作料理の話をすると、水は何ml?塩は何g?醤油は何ml?味醂は???と聞いて来る。私は「適当・・・。」と答える。独身連中はその「適当」が解らないと言う。「卵掛けご飯をする時どのくらい醤油をかければいいか解るだろう。まさか何ml?と計っていないだろう。刺身に醤油つける時どのくらいでしょっぱくなるか解るだろう。ゆで卵に塩を振る時どのくらいが丁度良いか解るだろう。その感覚で料理するのだ。」と言うと二の句が継げないようである。そして、ポソッと「そこまで意識してやっていませんでした」と反省しきりである。
料理と言うとすぐにグラム単位のレシピが出てくる。
そしてレシピ通りに作らないとできないと言う強迫観念を持っている。商売をしているなら常に同じ味で提供しなければまずいだろうが、個人の場合はアドリブで十分である。薄味は薄味なりに濃い味は濃い味なり食材は適当にあるもので楽しめる。反対にいつも同じでは面白くない。多分、一流のコックが一品料理を作るとき食材の重量も味付けもアバウトだと思う。大量にまとめて調理するからレシピが要る(作業員に担当させ全部駄目にする訳に行かない)。私の料理(特に味付け)は常に経験と勘である。だからこそ男の一品料理は一度っきりのアート(芸術)だと思っている。ただ、できあがりが一流だとは限らない。
この頃、組織で不祥事が起こると、その対策としてマニュアルを作成するという話をよく聞く。
私としては、いまさら何を言うのかと思う。今までにマニュアルがなかったとでも言うのだろうか。立派な成文化したマニュアルはなくとも、業務処理要領や判断基準はしっかりとあるはずである。いい機会だから立派なマニュアルを作るのは結構だけれども、マニュアルを作ること自体は解決策にはならない。
どんなマニュアルを作るのか、何を重点に作るのか、どのような対策を盛り込むのかが重要である。
反対に全てを網羅した通り一遍のマニュアルを作っても不祥事の対策にはならない。なぜならば、たぶん今回の不祥事の教訓をよく分析していないからである。少しでも分析するつもりがあるなら、現段階で主要な分析結果が話として出てくるはずだからである。先送り、他人任せの姿勢が見え見えである。
一度マニュアルを作ると、そのマニュアルは独り歩きを始める。
なぜならば、中身を十分検討していないからである。不具合があってもマニュアル通りにやろうとする。仕事をするのに細かなマニュアルは必要ないのである。必要最小限の申し合わせや取り決めがあれば十分である。単純労働でない限りきめ細かなマニュアルは労働環境を悪くするだけである。マニュアル通りにやることは単なる繰り返しに過ぎないし、生産性も質の向上も期待できないし、新しい未知の環境には対応できない。
マニュアル通りにやるのでなく、自分で考えて正しい方法でやるのである。
やり方は各人違ってくるし、成果も均一ではない。各人がより良い方法でより良い成果を出すように努力することが本当の仕事である。そしてよりよい成果を出した人や組織が評価され採用されるのである。採用する側には選択の余地が広がる。統一基準はそこの組織の常識であり、過去、現在、未来を繋ぐ統一基準みたいなものは残さなければならないだろうが、それは泥縄でできる話ではない。
マニュアルに頼ると、どこもここもお役所の窓口のような状況になってしまう。
どこに行っても、同じような均質のサービスが受けられるのはあまり好ましいものではない。個性的なサービスがせめぎ合ってその中から自分の求めるサービスを選択するのが望ましい。そこに均質の基準を持ち込むから話がおかしくなるし、手抜きをするために基準をごまかす者も出てくる。利用者側は均質のサービスと思い込んで 騙される。そして不祥事が起こると、マニュアルを作成すると言う。一体どうなってるんだろう。
マニュアルで最低限の基準を作るつもりなのだろう。
こんな最低限の基準しか守らない組織は絶対に利用しようとは思わない。マニュアルに縛られず可能なことは最大限追求する組織を迷わずに選択する。当然結果に対する保障はしっかりとやってもらうし、責任は取ってもらう。利用する側にとってマニュアルは全く関係なく、組織側の内部事情に過ぎない。それを利用者に向かって「マニュアルを作ります」と堂々と公言しないでほしいし、そんなことは利用者側にとっては何の具体的対策にもなっていない。不祥事があったらその責任を具体的にしっかりとって次からは改善してもらえばいいだけのことである。
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