皮肉(アイロニー)とは、
ギリシア語のエイロネイアに由来しているそうで意味は「装われた無知」だそうである。ドイツ語ではイロニーで「言わんとすることの反対を述べることによって言わんとすることをいっそう効果的に相手に理解させる方法」という意味だそうである。「皮肉」と言うと悪い印象を与えるが、学問的にはずいぶんと高尚で考え方によっては建設的で役に立つ手法のひとつである。日本語の「皮肉」は読んで字の如く皮と肉で、転じて身体を意味し「皮肉を言う」とは「本質を突くような鋭い指摘」のことである。
「無知を装う」とは、
本当は知っているけれども知らない振りをして他人の考えを聞くことにより他人に考えさせ最終的にその人を真実に向かわせ理解させ自覚させる手法である。「反対の意見を述べる」ことも、ある程度結論は解っていても敢えて反対の意見を述べると言う意味であろう。「無知を装う」のでなく「反対者を装う」ということになる。こう考えてくると、最終的に結論はひとつに集約されなければならないが、そこに至る課程において分析・比較・検討する段階で「皮肉」は極めて有効な手段である。
構想案の段階では、賛成者も反対者も一部「装う」部分がある。
不確定ではあるけれども一応賛成する、もしくは反対すると言う部分である。賛成者も反対者もこの「装う」部分について集中的に議論することになる。お互いに不確定であり弱点ではあるけれども、さも確定した完璧なものとして「装う」のである。「装う」部分がないと議論の余地がないし、「全て完璧だ」と言う人に対する皮肉は「全く無意味だ」になるであろう。独裁主義や権力主義はある意味では「全く無意味」なのである。独裁している人や権力者にとって意味のあることは、その他の人には無意味なのである。なんとも「皮肉」とは民主的な考え方であり手法である。
日本の場合、普通には「皮肉」とは、
「相手を遠回しに非難すること。予想に反した結果が現れること。」とある。ちょっと感覚が違ってくる。「皮肉」=「アイロニー」ではなさそうである。「アイロニー」は正面切って相手に反対し、しかも相手の言い分は解っていても無知を装うのである。そして最終的な目的は言わんとするところを効果的に相手に理解させることである。「遠回しに非難する」だけではない。日本の場合、もっと「アイロニー」を学ばなければならないのではないだろうか。「アイロニー」に徹した議論がなされているだろうか。ただ単に相手を遠回しに非難しているだけではないだろうか。常に「主」と「従」、「親分」と「子分」の関係で弱い立場の者が遠慮がちに遠回しに非難する場面が多いような気がする。立場がどうであろうと対等に堂々と反論を展開して相手を説得するような場面をあまり見たことがない。
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