新聞やテレビを見ていると、
ある主題に対して賛成意見や反対意見を取り上げたものをよく見かけるが、通常はその意見はマスコミで報じられている内容を要約した形で取り上げられているのがほとんどである。当然と言えば当然で、その意見を取り上げているのは当該新聞や当該テレビであり、それを選択しているのは当該テレビであり当該新聞である。無作為で取り上げたのではバラバラになり意図する主張が明確にならない。と言う事は一般市民の述べる賛成意見や反対意見は「一般市民」が述べているわけではなく、新聞やテレビの取材担当者が自分の主張に合わせた間接的な賛成・反対意見でしかない。これをさも「一般市民の声」として取り上げるのは責任のすり替えである。
一般市民に賛成・反対意見を求めるなら極めて個人的な立場である。
一般的な見解を述べるのであればそれはマスコミ報道の要約でありあまり意味がない。個人的な立場からの切実な問題を論じなければならない。そこには現実的で具体的で本質的な問題を孕んでいると思われる。その時に気をつけなければいけない重要な点は、個人の立場を明確にすることと、賛成・反対の理由を明確にすることである。「このような立場で考えるとこのような欠点(利点)があり、こういう理由で反対(賛成)である。」というのが賛成・反対意見の正式な述べ方である。当然発言した人は匿名の無責任発言でなく発言内容には責任を持ってもらわなければならない。
物事にはいろいろな立場でのいろいろな見方がある。
もし一般市民の賛成・反対意見を取り上げるなら、そのいろいろな立場でのいろいろな見方による意見を取り上げなければならない。その時の取捨選択の基準はそれぞれの立場に基づく「理由」の正当性である。それが感情的なものや気分的なものだけであってはいけない。当然一方的攻撃的かつ破壊的なものであってもいけない。冷静で建設的なものでなければならない(喧嘩腰の人には議論は通じないし最初から無意味である)。
反対派と賛成派、推進派と保守派との議論をテレビで見るが、
片方は相手の意見を無視し、片方は喧嘩腰の文句を言うだけという光景を目にする。これは小学校の生徒会以下である。議論のやり方についてもう一度勉強し直した方がいい。まさかいい年の大人が公共の場で喧嘩をしているわけでもないであろう。外国では学校で討論(ディベート)の仕方について教育しているそうである。自分の意見を主張する方法、相手の意見に反論する方法、相手を説得する方法などについて実際の場面でお互いに議論させて勉強させる。当然感情的になった方が負けである。日本人も感情に走らないで冷静に「討論」することを心がけたらどうだろう。反対派は何でもかんでも「反対」賛成派は何と言われようと「賛成」ではいつまでたっても平行線で歩み寄ることはない。「意気込み」と「声の大きさ」と「忍耐力」と「威圧」で押し切った方が勝ちというのでは文明国家としては情けない。
「賛成」「反対」だけをスローガンにするのでなく、
何が問題で何を解決すべきかを明らかにするのが重要である。その問題さえ解決すれば「賛成」も「反対」もなくなる。「賛成」とは言うものの、反対意見に「反対」という意味では反対派と立場は同様であり対等である。体制側や大多数側を「賛成」それ以外を「反対」と言っているだけである。賛成側が「善」で反対側が「悪」というわけでもさらさらない。ただ意見が分かれているだけである。お互いに対策を講じればひとつになるのである。要は問題点を明らかにしてその問題点を解決する方策を見つけるための討論であり議論である。
賛成・反対の討論や議論を聞いていると、
どうもこのような視点に欠けるのではないかと思える発言が多い。特にテレビで街頭インタビューと称して流している「一般市民」の声は本当の一般市民の声になっていない。第一、発言する時間が細切れの断片で、思いつきや感想でしかも結論だけでは真意が伝わらない。少なくとも起(自分の立場前提条件等)承(立場・前提条件に基づく主題)転(主題に至る理由・視点)結(全体を収束する結論)くらいは押さえるべきである。自分でも問題点がわからず「何とかしてくれぇー」と訴えているだけの主張も多い。
「一般大衆の平均的な意見を聞いているのに、
そこまで立派な弁論を述べられたら一般大衆の意見にならない。」という声がどこからか聞こえてきそうである。しかし、その考えは「一般大衆は馬鹿である」と言っているようなものである。一般大衆は個々に自分の視点から多種多様な意見を持っており、過激-穏健、革新-保守、熱狂-無関心などが寄せ集まって調和がとれているのであり、一般市民全員が平均的な意見を持って調和がとれているわけではない。もし、一般市民の声を聞くならこれらをまんべんなく紹介すべきである。紹介できなかった(カットした)場合も「このほかに関心のない人が何名、特に意見のない人が何名でした」と要約して紹介するのも客観的事実を伝える意味では有効であろう。
少なくとも、「一般市民の声」という隠れ蓑を使って、
その雰囲気や風潮でマスコミが自分の主張に有利な方向に導こうとすることは許されない。中立の立場を保つつもりなら「一般市民の声」だけではなく、一般市民のしっかりとした立派な意見として大切に取り上げ、反対も賛成も無関心も含めて平等に放送しなければならない。当然、特異なおもしろい意見もあるだろうが、それも正当性(判断基準ではなく論理的正当性)があれば正確に伝えるべきであり、一部の特異な意見だから無視するというのは事実を報道するマスコミとしては許されない(一部の特異な意見にこそ本質的な問題点を含むものが多い)。
民主主義(デモクラシー)は少数意見を大事にする。
少数意見も無視しないし、少数意見を発表する機会と場が平等に与えられる。しかし、意見は理路整然としたものでなければならない。感情的なわけの解らない意見は問題点も考え方もあやふやで対策のしようがない。理由もなく泣き叫ぶ赤ん坊と同じである。これは少数意見としては取り上げることはできない。「火のないところには煙は立たない」と言うことわざを引用して「騒いでいるからには何か問題がある」と判断する人がいるが、この考えは危険である。「何でもいいから騒ぎさえすれば妨害できる(ゴネ徳)」という良からぬ輩をはびこらせるだけである。ちゃんと対等な立場で討論できることが民主主義(デモクラシー)に参加できる最低限の条件である。
これができなければ少数意見(意見とは言えないが)が無視されても仕方ない。
「無言の抵抗」とか「声にならない声」とかいう言い方をして、虐げられた人々を擁護するマスコミ報道を時々見かけるが、これは単に思わせぶりな問題提起をして一般大衆の感情に訴えようとしているだけの卑怯なゲリラ作戦である。問題点があるならそれを明らかにすることに力を注ぐべきであり、局部的な事実だけを突きつけられても混乱させるだけで問題解決には結びつかないと思う。
一般市民の意見を例に取り上げたが、政治の場も同じである。
これまでに何度も繰り返し述べてきたが、日本の場合、政策を打ち出すときにこれを納得させるための十分な説明をあまり聞いたことがない。日本の場合は政治家もディベートのやり方を勉強しなければならないかも知れない。通常の物事の考え方には最小限でも「正」「反」「合」がある。ある考え(正)にはこれと対立する考え(反)があり、そしてこのふたつを統合する考え(合)がある。政策の説明にはこの考え方さえも感じ取れない。いつも独り善がりな結論だけである。私の言っていることが理解できない人がいるかも知れない。例を挙げて説明すべきであろう。
例えば、日米安保条約がある。
「正」を日米安保堅持だとすると、「反」は日米安保反対である。このふたつを分析すると、日米安保を堅持するなら米軍と日本軍(自衛隊)の有事の際の役割分担を明確にしておくのは当然である。米軍と話し合って日本の軍事力はどのぐらい(規模と能力)保有すべきか、有事の場合はどのように対処すべきか具体的な日米共同の作戦計画も検討せねばならない。日米安保反対とするなら日本から米軍を全て追い出して一切の軍事支援を断たなければならない。そして、自国の防衛力で自ら国を守らなければならない。そのための軍事力はどのくらい(規模と能力)保有すべきか、有事の場合はどのように対処すべきか具体的な作戦計画も検討しなければならない。
果たして日本国政府にこのふたつの検討がなされているのであろうか?
この「正」と「反」の分析・検討がなされて利害得失を考慮してはじめて「合」に至る。それは、日米安保堅持かも知れないし、日米安保反対かも知れないし、ふたつの折衷案かも知れない。日本国政府の見解にこのような説明を見たことがない。「軍事機密」だから細部は公表できないのかも知れないが、端から見ていると少なくとも一貫した考えがあるとは思えない。日米安保堅持が結論としての政策なら上記の分析に基づく対策がとっくになされていてしかるべきである。ところが日米安保反対の意見に押されて対策の推進を先送りしながら現在に至っている。どっちつかずの宙ぶらりんの状態で放置されている。当然現状の説明もつかないし、反対派を説得することもできないし、新たな結論を導くこともできないでいる。
「政治とはそんなに簡単に割り切れるものではないですよ~」と、
老練な政治家(いつも故宮沢喜一氏の顔が思い浮かんでくる)のお説教が聞こえてきそうだが、部外に公表はできなくても内部ではしっかりとした国際社会でも通用する政略なり原則なりを持っているべきである。どうもその政略なり原則なりがあやふやな感覚を拭いきれないがどうであろう(「あやふや」そのものが政略であり原則ですよ~、と言われたら最高の冗句である)。
だいぶ脱線してしまったが、
何度も繰り返していることは、「政治レベルでも個人レベルでも感情や雰囲気に何となく左右される浮き草みたいな日本人特有の性根は早い時期に直すべきである。」と言うことである。しかも「川の流れに身を任せ」の処世訓は日本国内では通用しても国際社会では通用しないことを肝に銘ずるべきである。自分の世界と他人の世界と日本の社会を相似形で捉え、これを国際社会に展開して行かなければならない。まずは個人の自尊心の確立であり、他人の自尊心の尊重であり、社会と個人のつながりの自覚であり、これを地球規模に拡大する心がけであろう。とりとめのない話で恐縮だが以上で起承転結の「結」とする。あしからず。
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