オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

建設的な問題提起は大いに推奨

2007年12月15日 | Weblog

約15年前、第一戦の多忙な職場でバリバリ働いていた頃、

 昼間は電話や来客の応対と調整会議で明け暮れ、自分の仕事は時間外の夜しかできなく、泊まり込みで次から次へと転がり込んでくる担当正面の業務に追われていた時期があった。仕事上の関係者も昼間は忙しいのがわかっているので、夕方に仕事を依頼し、明日(通常は明朝10時)までに提示というパターンが繰り返された。まるで禅寺の修行僧の問答みたいなもので、短期間に情報を集め、資料を作り、考え方と今後の方向、問題点、対策・処置を明らかにし、採用案を列挙して分析し、最後に担当者の採用案(結論)を提示する作業をこなすことになる。

効率的にやるためには、

 まず結論を決めて作業にかかることである。全体を見渡して「エイッヤッ」と結論を決め、その結論に焦点を合わせて作業をすると無駄もなく、考え方もすっきりして、説得力もあり、出来上がりもきれいである。この手法は、情報欠落と分析不足からくる勝手な脚色と思い込みでありで悪いとは思っていてもやむを得ずよく使ったものである。

そんな中に、我らの同僚で「てぇへんだ!てぇへんだ!」と、

 水戸黄門の「八兵衛」よろしく、いつも問題を持ち込む奴がいた。その頃は仕事に追われていたので、新たな仕事を増やす原因を作るその男が疎ましくてしょうがなかった。時には、解決の目途の立たない問題については「黙っててくれ」と無視することもあった。そうすると、その同僚は、関係する部署にその問題を触れ回って、あちこちに火をつけて回る始末であった。そして、仕方なしに重い腰を上げて、みんなで対応策について検討し懸命に「火消し」を始めると、その同僚は「任務終了!」とばかりにさっさと手を引いて見守っている。「コノヤロ!」とよく思ったものである。

ところが今考えると、

 この同僚の問題提起は最終的には良い結果を産んでいる。あの時あの問題提起がなかったら、問題点を見過ごし、時機を失し、解決できないまま放置されたことであろう、と思うことしきりである。彼は、知ってか知らずかこの重要な役割を果たしていたのである。

いついつまでに結論を出さなければならないという仕事は、

 深さと幅を限定せざるを得ない。考え方だけの結論であればまだいいが、実行を伴う結論は「英断」を必要とする。時間の余裕がない時は全体の方向を間違わないようにするのが精一杯である。しかし、個人で勝手に「結論」を決めつけて、その「結論」を説明するための情報だけを提示して誘導するのはどう考えても「手抜き」であり、錯誤を招く。特に、実行を伴うものは、ほんの些細なことでも結論が大きく変わる危険性を持っている。その些細な事象を見過ごして結論を誤ると最悪の場合は途中で頓挫してしまうことになる。

ただし、

 その些細な阻害事項は事前に察知していれば中途での対策が可能な場合がほとんどである。必要なのは時間の余裕である。時間の余裕を失えば失うほど対策は困難になり、直前の対策はほとんど不可能に近い。早い時期に阻害事項を見つけることと、見つけた阻害事項は無視あるいは見ないふりをして放置せず、早期に具体的な対策をとることが重要である。

周りを見ていると、自分だけで問題を抱え込んで、

 外部に問題を一切持ち出さず、見た目には問題なく整斉と仕事をこなしているようだが、時間が経つと問題が爆発し、その時点では収拾がつかないほどに手がつけられない状況になっており、周囲に害悪を及ぼしているような人を時々見かける。自分で責任をとる姿勢があればまだいいが、前任者の成果を食いつぶし、問題を放置し、頃合いを見てさっさと職務を交代し、後任者負担とするようなことは許されるべきではない。

このように考えると、

 積極的に問題を提起してくれる人は貴重である。大切にし、その意見は尊重しなければならない。問題点に目をつむり、これを先送りしたいのが人情である。そのため、積極的に問題を提起する人はトラブルメーカーとして忌み嫌われるのもこれまた人情である。人の嫌う問題提起を積極的にやろうとするのは、本当の使命感からか、故意の悪意からする中傷であろう。それを見極めるには、まずその人の意見を良く聞くことである。最初から無視していては貴重な意見も見逃してしまう。問題提起を受ける側にも使命感からくる建設的な考えが必要である。

一般社会では、マスコミが問題提起の役目を果たしているのであろう。

 大いに問題点を明らかにし、民意を得て先送りにしない、またはさせないしっかりした「世論」を築くことが重要である。ただし、その問題点は、「いやだ」「嫌いだ」「気に入らない」「不安だ」「信用できない」等の感情的なものだけでは意味がなく説得力もない。このような一時的な感情からの問題提起は無用な混乱を招くだけである。何が問題かを明確にして論議しないと、ただでさえ混乱した無秩序に向かうものがさらに発散して収拾がつかなくなる。

問題の提起の仕方にも工夫がいる。

 少なくとも、周囲の者に本当に解決すべき問題だと納得してもらわないといけない。問題点を提起する人が有利な立場でこれを受ける人が不利な立場に立たされて一方的に不満をぶつけられるのではたまらない。土俵は同じで目標とするところも同じで、同等の立場で議論されなければならない。第三者的な立場からの無責任な発言や、本来の目的を逸脱した破壊的な発言であってはならない。できれば、問題提起する側もある程度の解決策を用意しなければならない。


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