オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

伝統とは「普通」の反復

2007年12月17日 | Weblog

伝統とは退屈なものである。

 昔から変わらないのが伝統であれば、変わり映えしない伝統は退屈なものであるのは当然である。だから伝統を守ることは大変な忍耐と努力を必要とする。この退屈なことを守り続け維持しないと伝統は消失してしまう。

マスコミの報道で伝統行事が紹介されている。

 内容は面白おかしく編集してあるが、現地の当事者にとっては毎年繰り返される変わり映えのしない退屈な行事でもある。やじ馬的に第三者からみればちょっと変わった日常の話題として面白いかもしれないが、それだけである。「ふうん、そんな伝統行事もあるんだ」で終わってしまう。もっと突っ込んでその意義や歴史や本当の面白さを探求しようとは思わない。

伝統の文化は安心感がある。

 毎年変わらず繰り返されるということは、永遠の繰り返しに通じ、その繰り返しは確信に変わる。繰り返しそのものが存在意義になり、その繰り返しに安心感と太古から現代に伝わる人々の思いを共有することができる。同じ思いを再び思い起こすことができる。そこに脈々と流れるものが伝統であろうと思う。

伝統にも地味ではあるが楽しみがある。

 その楽しみを積極的に見つけることが伝統の継承につながる。要するにその伝統がなぜ子子孫孫にわたって受け継がれてきたのかを明らかにする必要がある。単に形だけの伝統を伝えてもその思いは廃れるばかりである。国内を見渡すとそんな形骸化した伝統がゴロゴロしているし、伝統の継承者も少なくなりつつある。

伝統の継承の主要な部分は「コミュニケーション」である。

 伝統行事の主要な部分は地域社会とのコミュニケーションであり、世代間のコミュニケーションであり、家族や親族のコミュニケーションであり、日本人としてのコミュニケーションである。伝統が廃れるということはこれらのコミュニケーションが円滑に行われていないことを意味する。

伝統行事だけを映像と解説で話題として取り上げても、

 伝統そのものに触れることはできない。なぜならば目に見えないコミュニケーションを伝えることができないからである。反対にコミュニケーションが欠落した形だけの伝統行事を映像と解説で見せることは可能である。しかしこれはやらせに近い。そんな映像を見せられることが少なからずある。

伝統を継承する当事者には同質の文化を共有している。

 しかしながら、ただ単に興味本位で第三者的に見物している人は本当の文化を共有できない。ましてやテレビで放映されるものをチラッと見たくらいではまるで異次元の世界に等しい。そして、興味が尽きたらそれまでである。その場だけの興味本位を満足させるための伝統に過ぎない。本当は何の意味もない。

そんな第三者を満足させるための伝統もある。

 しかし、そのためだけに伝統を維持するのは多大な労力が必要となり、結局は形だけの伝統をつないでお茶を濁すことになる。そして、形だけの伝統を維持することは精神上多大な労力が必要となる。結局は伝統の存在意義がなくなって伝統を担うものがいなくなり伝統は廃れてしまう。




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