オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

差別語

2007年01月12日 | Weblog

差別語なるものがあるらしい。

 男と女を差別するもの、身体障害者を差別するものなどであろうか。そこで差別語をなくして別の言葉に言い換えようという動きがあって、すでに実行されている。そもそも、「差別語」なるものはどのようにして生まれたのだろう。最初から差別するために生まれたのか、それとも現実を忠実に表現した言葉が差別に用いられたのか、それとも理不尽に差別された過去の歴史の中で象徴的な差別語として用いられたのだろうか。多分、差別語をなくそうという動きは後者の理不尽な差別の過去の歴史を清算してしまって新しい言葉に置き換えようとしているのだと思う。それはひとつの解決策かもしれないが、もうひとつ、差別語そのものの本質的なものを変えていこうとする解決策もあるかもしれない。そうすれば差別語そのもののイメージも変わってゆくと思う。なにも新しい別の言葉に言い換える必要もない。

差別されている側が堂々と胸を張って差別語を使える社会にすべきである。

 たとえば、自分の名前で市民生活をするのに都合が悪くなったから名前を変えようという解決策と、都合悪くなった部分を自ら変えて名前はそのままで市民生活を送る。という方法があるのではないか。私はどっちかと言うと後者が望ましいと思う。過去に悪い事もあったがそれを乗り越えて現在は素晴らしい一人の人物がいた方がその人となりを忠実に表している。過去を全て断ち切って新規やり直しせざるを得ない場合もあるだろうが、それは最後の手段ではないかと思う。追求すべきはやはり後者であろう。

アホウドリはアホウドリのままでいいのではないだろうか。

 「アホウ」という名が付いているからかわいそうだと言う人もいるが、昔、羽毛をとるためにアホウドリを乱獲したが、その時アホウドリは逃げも抵抗もせず猟師に捕まったので、「アホウ」という名が付いた。「アホウ」は争いを好まない穏やかで平和な動物である事の親しみと賞賛の呼称である。果たしてアホウドリが「アホウドリ」と呼ばれることに抵抗があるのかないのかは知らないが、「アホウ」が差別語だから別の呼び方にしようと言うのは的が外れている気がする。それとも「アホウドリ」という言葉を聴くだけで精神的に傷つけたり、不快感を与えたりする人間社会の環境があるのだろうか?

もし、そのような人間社会の環境があるのだったら、

 現在も「アホウ」と呼ばれて差別されている人がいるということである。その差別されている人が人間からいじめられ虐げられている記憶を呼び起こして精神的に傷つけられ不快感を感じているのであろう。差別をなくすのであれば「アホウ」と呼ばれて差別されている状況そのものを変えなければならない。「アホウ」を別の言葉に変えても、また別の「○△□×」という言葉で差別される。差別語をなくしてしまえば差別がなくなるわけではない。不快感を表す言葉を全てなくしてしまったら、不快感を表現する言葉がなくなってしまうし、精神的に傷つける言葉も必要なんだと思う。それを使うか使わないかは個人の人間性にかかっている。そして言葉の使い方にもよると思う。関西で「ア・ホ」といえば普通一般の受け答えである。これを憎しみを顔に出して睨み付けて「アホ」を連発すれば言われたほうは精神的に傷つき不快感を覚える。

看護士と看護婦が「看護師」ひとつになる。

 「士」という言葉は「さむらい」であり男性である。せっかく女性に敬意を払って「婦」と付けられたのに、女性である事に誇りを持っている人達には抵抗があるのではないかと思う。「看護婦」はそのままの呼称で「看護婦」の地位向上を図ることが本来の差別をなくすことにつながると思う。「看護婦」が「看護士」と同等またはそれ以上の地位と役割を担えば差別なんてなくなる。「看護婦」という呼び名に憧れてこの職業を選択した人もたくさんいるだろう。呼ぶほうも「男の看護師さん」「女の看師さん」といちいち言わなければならない。それとも、男も女も区別するなというのだろうか。男女を差別する事と男女を区別する事は別であり、やはり男女の区別は厳然としてあり、これからも区別されるべきである。もっと言うと、個人個人だって当然区別されるべきであり、区別される事が個人の人格を保ち個性を主張できる。老若男女すべてひとくくりにして扱うなんて断固として許せない。

日本魚類学界が魚の和名から差別語をなくすため改名するという。

 「バカジャコ」「イザリウオ」「クロメクラウナギ」「オシザメ」などだそうである。なかなかユーモアがあって特徴を表していていい名前ではないか。たぶん、差別だと思っているのは人間だけで、しかも人間のために勝手に改名される。魚には全く影響がない。人間のためと思い込んでいるのも勝手な妄想である。反対にこんな名称のために精神的に傷ついたり不快感を感じる社会の方が病んでいる。結局は思い込みの激しい人達がそれぞれ勝手に改名する事を防止するための統一であるようだ。名前を変えても差別はなくならないと当の本人たちも重々理解している。

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