交響楽団の演奏を生で聴いた。
演奏会そのものはすばらしいものであったが、コンサートを終えて帰る道すがら、この満ち足りた安心感、安堵感、幸福感の源は何だろうと考えてみた。一義的には一流の音楽芸術を堪能した結果であろうと思うが、それをもうひとつ突っ込んで考えてみると、まず第一に、決まり切ったことを決まり切った通りに履行することのすばらしさである。決して期待を裏切ることはない計算され尽くした「美」である。次に、全員が一致団結したチームワークで創り上げる「美」である。そして最後に、一人一人がひたむきに心を開いてひとつのものを表現し訴えようとする「美」である。
決まり切ったことを決まり切った通りに履行することはひとつの「美」を生み出す。
この頃の現代社会では、意外とこのことを忘れているのではないかと思う。これは文化の根源でもあると思う。昔文字がなかった頃、文化は口伝で継承されていた。それは耳から聞いたことをそのまま忠実に記憶し、記憶した内容を時と場を変えて語ることにより多くの人々に伝えられた。これが文化である。文化は過去の遺産でもあり、これを伝えるためには「決まり切ったことを決まり切った通りに履行する」という手続きが不可欠である。現代社会はこの手続きを「めんどくさい」「かったるい」「意味がない」「退屈だ」という理由で安易になくしてしまう傾向にあるのではないか、これでは文化を自ら真の意味で享受できない。
全員が一致団結したチームワークを見ていると本来の信頼感を取り戻す。
当然と言えば当然だが、一人一人がバラバラ勝手な演奏をしたのでは無惨な結果に終わる。意外に我々は「バラバラでもいいじゃない」と思ってしまうし、反対に全員が一致団結することを「封建的だ」「権力の行使だ」「自由平等に反する」という言い方をする人もいる。オーケストラの場合は、指揮者がいて、コンサートマスターがいて、パートリーダーがいて、ひとつの芸術的な仕事が成し遂げられている。反対にこれらのまとめる力がなければ無惨な結果を招くだけである。また演奏者は積極的にこの力に協調し調和しなければならない。この協調し調和できるのが信頼感でもある。世の中にはいたずらにこの信頼感を乱す人が多すぎるし、そのために本来の国民相互の信頼感を損ねている。
一人一人が一生懸命にひとつのものを表現し訴えようとするひたむきな姿は、
本来の自信を取り戻し生きる勇気を与えてくれる。以前、横須賀の米軍基地で開催されたクリスマスコンサートに行ったことがある。その中で米軍家族の子供がクリスマスソングを全員で合唱するプログラムがあったが、その子供達がキラキラと輝いて生き生きしているのに感動した。「みんな見て見て!私は舞台に出てこんなに活躍しているよ!すごいでしょ!歌もじょうずでしょ!私頑張ったんだよ!」という感じである。どこかの国の学芸会みたいに嫌々歌わされているのとは大違いである。国民性の違いかも知れないが子供の頃からあのようにしっかりと自己を表現することの重要さを教えられている国にはかなわないなと思ったものである。
文化を享受し堪能し理解できる「人」を育てる必要がある。
世の中の殺伐とした刹那的なギスギスした多種多様な事件の主人公達を見ていると、この人達は、例えばこのようなコンサートに来て音楽を鑑賞する心のゆとりが果たしてあるのか、たとえ来場してもこの音楽に感動できるのか、そのすばらしさを実感できるのか疑問に思えてくる。たぶんそんなことはないのであろう。いろんな面でそんな環境がなかったがために、コツコツと真面目に生きることも、人を信じることも、みんなで力を合わせることも、自らをうまく表現することもできなかった結果としてこのような事件を起こしていると思う。
殺伐とした刹那的なギスギスした風潮は「文化」を育てることで解消できる。
例えば、市町村単位で楽団を作って無料の音楽会を開いて多くの人に聞かせてやればいい。ただし、この音楽は聴衆を魅了できる芸術性の高いものでなければ意味がない。そこには人生のお手本がある。少なくとも「決まり切ったことを決まり切った通りに履行する文化」と「お互いに力を合わせるチームワーク」と「自己をうまく表現しようとするひたむきな姿勢と意欲」を見せつける必要がある。当然期待を裏切るような行為(トチリ、音はずし、不協和、違和感など)は一切なく、聞き終わった後に安心感、安堵感、安定感、幸福感を感じさせる芸術性の高いものであるのが求めるべき目標である。
諸外国では市町村単位で楽団を持っている国は珍しくない。
日本の場合、楽団で生計を立てることは難しいと聞いている。楽団員を続けている人も副業を持たないと生活できないのが実体らしい。音楽(特に文化度の高い交響楽や古典の伝統音楽)に関しては日本の文化度はきわめて低いレベルにある。教育が問題になり、学校という入れ物だけを改良することに躍起になっているが、教育の根源である文化を育てる努力を怠っているのではないかと心配になる。そんなことはないですよ、日本には市町村単位で立派な文化会館がありますよ、文化の振興には力(金)を入れてますよ、と言うかも知れないが、入れ物はあっても中身がないのではどうしようもない。文化会館はあってもそれを有効に活用できるような演目である中身がないのではしょうがない。
コンサートを終えた後の満ち足りた気持ちは、
日常の自分の殺伐とした気持ちを和らげてくれるし、本来のあるべき姿に戻してくれる効果がある。不信感に満ち満ちていた人も信頼を取り戻し、悲嘆にくれている人にも一筋の光明を見出し、先人の残したなにがしかの伝統と文化に触れ自信を取り戻し、ひとつひとつ着実に生きることの大切さを実感し、みんなで力を合わせるすばらしさを体感し、自分をうまく表現するひたむきな心の大切さに勇気づけられ、云々である。このような気持ちが持てる人であれば、殺伐とした刹那的なギスギスした事件を起こすこともないと思われる。
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