世の中は情報化社会という。
どこを向いても情報であふれている。情報が諸資源と同等の価値を有し、それらを中心として機能する社会のこと。また、そのような社会に変化していくことを情報化という。情報に翻弄されるようになってしまう社会とも言える。しかし、この「情報」そのものは一体何であろうか?誰が作り出したものであろうか?果たして自分にとって重要で必要不可欠なものであろうか?そう考えると得体の知れないものばかりである。
情報には2種類ある。
日本語の場合は全てを一括りにして「情報」と言っているが、英語では、InformationとIntelligenceに区別されている。Informationは単なる資料としての情報であるが、Intelligenceはその資料を分析比較精査して新たな情報として作り出されたものである。この資料を処理するのはあくまで人間で、ここに一人の人間としての意識が働いて生み出されるものである。ただ単に膨大な情報を整理して提供するだけでは情報は生み出されない。
情報を最初に作り上げるのは個人である。
その個人は、自分を取り巻く環境から五感を時には五感以外のものを駆使して一つの情報を作り上げる。これが生まれたての最初の情報である。その時の取り巻く環境は人工的なものと人工的以外の自然のものがある。人工的なものとは人間が作り上げたもので、ご先祖様や同世代の誰かが作り上げたものである。自然のものとは、人工物以外のものである。
取り巻く環境が人工であろうと自然であろうと、
その環境をもとに情報を作り出すのは一人の人間である。その作り出された情報が本当の純粋な情報である。世の中に出回っている情報は得体の知れない個人の集団が発した情報の塊にしか過ぎない。そんな情報を情報処理技術を駆使して提供しているに過ぎない。その情報ははっきりいって本当の純粋な「情報」ではない。得体の知れない膨大な情報を処理した情報に過ぎない。
取り巻く環境には「人工」と「自然」がある。
しかし、自分の周囲を見回すと、人工物と、赤の他人が作り出した人工の情報ばかりである。人工のものは人間が作り出したもので、森羅万象全てを網羅しているわけではない。人間が解明し、人間に役に立つ、人間に有用なものしか対象にしていない。あくまで人間中心のものであって、自然の一部にしか過ぎない。
自然は森羅万象全てを網羅している。
自分自身の反省として、自然から情報を作り出す努力を忘れているのではないかとつくづく思う。自然に接して自然の中で活動して新たな情報を作り出すことがおろそかになっているのではないかと危惧する。海もあり山もあり川もあり畑もあり森もあり空もあり宇宙もある。ここから得られる情報はたくさんあるはずである。
考えてみると、自分の体も自然そのものである。
その延長線上に大自然が展開している。それなのに、なんで人工のものばかりに執着しなければならないんだろう。そして、最終的にはこの自分も大自然の中に取り込まれ一体化してゆく。自分の五感を駆使して大自然と語り合わなければならないんだろう。これが本当の新鮮な「情報」ではないかと思う。こんな「情報」を大切にしたいものである。
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