オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「国家公務員倫理法」は「汚職防止法」(その1)

2008年12月06日 | Weblog


国家公務員倫理法が平成12年4月から施行されている。

 中身を見てみると、国家公務員の職務権限の及ぶ業者からの接待や贈与を原則禁止したうえで、(1)「本省課長補佐級以上」にその他の業者などから「一件五千円」を超える接待や贈与を受けた場合は報告義務を課す(2)「本省審議官級以上」の所得と株取引の報告義務を課すなどが主な柱となっている。一体これは何だろうと首を傾げてしまう。

報告義務を果たしたら接待や贈与を受けてもいいと言っているのだろうか。

 一件五千円未満であれば接待や贈与を受けてもいいと言っているのであろうか。「本省課長補佐級以上」「本省審議官級以上」でなければ報告義務はないと言うことは、黙ってやろうと思えば接待や贈与ができると言っているのであろうか。職務権限が及ばない人達は業者からの接待や贈与を受けてもいいと言っているのであろうか。業者以外からであれば接待や贈与を受けてもいいと言っているのであろうか。どこをつついても疑問ばかりである。

「国家公務員倫理法」という名称自体がおかしい。

 名前と内容が一致していない。内容からするととても「倫理」といえる代物ではない。倫理とは「人のふみ行うべき道、道徳」とある。「国家公務員」に「倫理」を「法律」として規定するのはどう考えてもおかしい。普通の市井人でさえも「倫理」はある程度持ち合わせており、倫理は法律として定められる性格のものではないと思う。人それぞれに「倫理」があり一元的にこれが「倫理」ですと言われても困ってしまう。「国家公務員倫理法」は中身から察すると「国家公務員汚職防止法(暫定)」が適当ではないかと思う。何度も言うが、内容からするととても「倫理」と言える代物ではない。

国家公務員の倫理を正さなければならないとは情けないことである。

 国が倫理(道徳)の押しつけを始めたら終わりである。「倫理」そのものは歴史と文化に応じて多様で、一元的な体系化は無理であり、相対比較することもできない。これを一元的に決めて、一方的に善し悪しを押しつけるのは民主政治においてあってはならない。しかもその内容が「接待や贈与の正しい受け方と報告要領」であっては、次元が低すぎてあきれてものも言えない。少なくとも国家公務員の理想を掲げた法律であればまだ救えるが・・・。国家公務員たるものは当然倫理を持ち合わせており、倫理に反する行いをした場合はしっかりとその釈明をし責任を取らなければならない。倫理が欠如している人は最初から「人でなし」であり、公務員としてはもちろん一般市民の資格さえない。

国家公務員倫理法の中身を見てみると、

 国家公務員をまるで小学生扱いみたいに手取り足取り規定している。まるで国家公務員がはじめから倫理を持ち合わせてなくて、形だけでも最低限の倫理を守らせようとしている雰囲気が感じられる。そしてこれさえ最低限守れば国家公務員の倫理を逸脱することはないと主張しているようにも受け取れる。大間違いだと思う。国家公務員は怒らなければならない。一部の不届き者はいるが、ほとんどの国家公務員は立派な人格の持ち主である。その人達は馬鹿にするなと怒るべきである。それができないということは、自分達も反省するところがあり仕方ないと思っていることになる。果たしてそうであろうか。どこかで諦めてしまっているのではないかと心配になってくる。

「汚職を防止する」=「接待や贈与をなくす」ではない。

 接待や贈与がなくても汚職はできる。血のつながりがある人を職権を使って優遇したり、単なる個人的な好みで職権を乱用し特定の人を優遇したり、その日の気分だけでいい加減な首尾一貫しない裁定をしたり、反対に職権を放棄して適性に行使しなかったりである。「利益」も金銭だけではない。「楽をしたい」「権勢を誇示したい」「偉ぶりたい」「賞賛されたい」「いい格好をしたい」「嫌なことはやりたくない」などいっぱい考えられる。そういう「汚職」も立派な汚職である。具体的な金銭授受や利益供与がないと刑事や民事に訴えることはできないだろうが、汚職は汚職である。そう言う汚職が続く公務員は刑事罰はなくとも罷免させなければならない。公務員の選定罷免権は国民にある(日本国憲法)。

汚職を防止するためにはどうしたらいいのだろう。

 公務員に倫理が欠如しているから汚職をやるのではない。倫理はあってもこれに反してこれを無視して汚職をやるのである。倫理に反しているから汚職なのである。小学生が汚職をしても責任を問われることはない。それは小学生には未だ倫理が欠如しているからである。そうであれば、倫理そのものを云々するのでなく、汚職を追放できる人なり組織なりに焦点を当てることが重要であると思う。人なり組織なりが汚職を監視し、見つけだし、粛正する機能を持っていれば汚職はなくなる。外部から追求されて嫌々汚職を認め国民のご機嫌取りのためのその場しのぎの後ろ向きの対策を打つようではいつまで経っても汚職はなくならない。

汚職の行為そのものを粛正できる人なり組織なりが重要である。

 汚職はあってもいいのである。たぶん未来永劫これを追放することはできないであろう。百人いれば一人くらいおかしい輩がいるのは自然である。このおかしい輩をおかしいと指摘できる人なり組織なりが維持されることが重要である。ということは、現在の人なり組織なりの汚職に対する考え方の正否を判断するには、汚職事件が起きたときの組織の対応で判断できる。断固として処置できれば立派である。嫌々処置しているようではまだ汚職の根は絶たれていない。適正な処置もできないようでは組織ぐるみが汚職に染まっていることになる。

未然に防止するよりも起こったときの対応をしっかりすることが重要である。

 汚職が起きると言うことは、人なり組織なりに何らかの欠陥があると言うことである。組織に欠陥はつきものである。汚職事件そのものはその欠陥を指摘する貴重な教訓を残してくれている。これを有耶無耶にすることなく、責任権限を明らかにし、誰が手を抜いて、どこのポストが機能してなくて、どの規則が不備で、どの組織に欠陥があるのかを突き詰めて、汚職が発生するたびに欠陥を改善していけばいいのである。この繰り返しによって人なり組織なりの健全性が確保できる。これをいい加減にすると「この程度は許されるのか」「見つからずに済んだ」「対岸の火事で関係ない」という認識が蔓延し、いつまで経っても汚職はなくならない。汚職の根はみんな同じなのである。

今回の「国家公務員倫理法」はどう評価されるだろう。

 汚職が頻発するから国家公務員倫理法を制定したのであろうが、頻発する汚職をひとつひとつ確実に粛正してゆくという態度は読みとれない。国民のご機嫌取りまたは個々の汚職から目をそらすための手段ではないかと思えてしまう。汚職事件のひとつひとつの原因や不備が完全に改善されたと評価できる事例は見つからない。最後は有耶無耶であり、ほとぼりが冷めると闇に葬られてしまう。残ったのは告訴された個人に対する長引く裁判だけであり、忘れた頃に結審が出て「そんな事件もあったなぁ」と思い出すくらいのものである。有耶無耶にするとは人なり組織なりがしっかりしていないことである。有耶無耶にせざるを得ないということでもある。

この頃は「接待」や「贈与」と言う言葉が使えなくなっている。

 「接待」や「贈与」またはこれに類する言葉を使うと周りから不審の目で見られる。接待とは「客をもてなすこと」であり本来は何も悪い行為ではない。お客をもてなすことは推奨されるべきことである。訪問客に対して接待できないとなると人間関係はすこぶる悪くなるし、仕事もうまくいかない。接待は何も悪くないのである。悪いのは「悪意を持った接待」であり、悪事を実現するための行き過ぎた「接待」である。「接待」そのものが悪いのでなく「悪事」が悪いのである。悪事を退治すればいいのであり、接待をなくしても悪事はなくならない。贈与も同じである。

悪事を実現するための接待や贈与は、一銭たりとも何人たりとも許されない。

 問題は金銭の大小や権限の強弱や職務の上下や公務員云々ではない。「悪意」であるかないかである。まずは「悪意」であるかないかそのものを判断することをしなければならない。金銭の授受や利益の供与はそれを確実に証明するひとつの要因にしか過ぎない。「悪意」であるかないかを判断するのはその組織の上司であり、監査機能を持つ組織である。悪いことは悪いとして断固として是正しなければならない。警察や裁判所や各種検査での結論がなくても悪いものは悪いのである。それを判断し是正するのが組織の上司としての職務であり、その人には是正できる権限が与えられているのである。この権限の行使を躊躇してはいけないし、また組織は権限を明確に与えなければならない。

政治献金や政治資金集めパーティーは倫理に反していないのだろうか?

 私は反していると思う。まずは「政治には金がいる」と言うこと自体が倫理的におかしいと思う。金で政治をすることはどう考えても倫理に反する。その金を政治献金や政治資金集めのパーティーで堂々と調達すること自体がますますおかしい。金は人気(票)を獲得し反対意見をを封じ込むために使われる。あるべき姿は金を使わないで仁徳を発揮して人気獲得を目指すべきであり、自己の信念に基づいた熱血の議論で反対意見を説得する努力をしなければならない。

「政治に金がいる」ような体質は、

 仁徳のない人がはびこり、積極的な議論がなされない空洞の政治を生み出す。政治献金や政治資金集めパーティーにせっせと金を献上する人達も決してその政治団体や個人に心底信奉してやっているわけではなく、当然のごとく利権がらみである。これも倫理に反している。一般市民はそんなことに無関心で情報もないかも知れないが、政治資金の収支はしっかりと官報に政党名、個人名、団体名、企業名、金額まで詳細に記載され公表されているのである。政治に湯水のように金を使う政党や政治家はしっかりと評価し、次回の選挙に反映してゆかなければならないし、政治献金をしている団体や企業に対しては、関連の不正がなされていないか監視していかなければならないと思う(公然の事実として黙認してはいけない)。(つづく)


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