憲法改正論議が盛んだが、
戦後GHQが定めた教育基本法も歪んだところが多い。枢軸国として敵対して戦った日本国をとりあえず骨抜きにするために、集団主義の日本人を個人主義で染め上げて個人はバラバラにされた。当然個人を繋いでいる伝統や風習や道徳、宗教までもずたずたにされて、愛国心なんてとんでもない、地域社会での協力も制限されたし、これらを教える教育そのものが廃れて行って現在に至りさまざまな問題を生起させている。
教育の基本に立ち返って、何のために子供を育てるのだろう。
私は、まずは自分の子孫を残すためだと思っている。自分の生きてきた証として立派な子孫を残すことは、個人の寿命を越えた世代の後継者としての重要な意義を有すると思う。さはされど、具体的に現実的に何を期待するかと言うと、家族を支えてくれる有能な担い手として、また、人生の頼りとなる同伴者として、老後を面倒見てくれる介護者として考えることは間違っているのだろうか・・・。
現代の世の中はどこもここも個人主義ばかりである。
生まれるのも一人、生きるのも一人、死ぬのも一人、と言うのはいかにも格好いいが、結局は自分の親も子供も面倒を見ないで、ただ一人生きて死んで行くことに等しい。しかもなお、誰のお陰で生まれ育ったかは省略してしまっている。自分の親も子供もしっかりと面倒を見て、自分も面倒見てもらえばいいではないか。そこがおかしいから、すべてがおかしくなってしまう。
現実的だ、打算的だと言われてもいいではないか。
その目的のために、子供を生んで、子供を立派に育ててもいいではないか。その部分の自分と子供の繋がりが希薄なために、子供を育てる目的を失っているし、世代間で継承すべきものまで亡くしてしまっている。家族を支え自分の老後を見てくれるような人物はそれだけで立派な人物であり、その目的のためには自分の子供を立派な人物に育てなければならない。そして、家族は協力して生きて行かなければならないし、地域社会も協力しなければならない。
戦後植え付けられた個人主義では子供を育てる意味がなくなってしまう。
だから、子供は生まないし、子供の教育もいい加減である。あんたはあんたで生きなさい、私は私で生きる、と言う考え方の中では、親の教育なんて成り立たない。しかも、子供が親の楽しみのためのおもちゃ代わりになったんでは、独り立ちした人間が育つはずもない。自分の跡を継ぐ自分より立派な人物に育てるためには、それなりの親としての覚悟が必要である。
イメージ、バーチャルの世界から現実的になろう。
自分の子供と具体的な関係を築き上げる必要がある。それは、生活の中の協同作業の中で生まれると思う。協同作業では、親は親なりに、子供は子供なりに役割分担が決まってくる。その地位役割の積み重ねが親子関係へ、そしてその関係が子々孫々に継承され、いずれは親の地位役割を子供が引き継いで行く。その現実感を持つ必要性と機会が少なくなっているし、そのような関係を作り上げようという意欲がなくなっている。
皆様のお陰という気持ちが薄らいでいる。
他者を思いやる心が薄らいでいる。総じて人間関係が希薄になっている。金さえ払えば感謝する必要はないと思っている。人のために尽くす無償の心がなくなっている。ふんだんに物が溢れているのを当然と思っている。勿体ないという心がなくなっている。などなど、挙げればきりがないが、すべて戦後個人主義の残滓と文明社会の弊害だと思う。少しずつでも変えて行かねばならない。
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