警察が犯罪を取り締まるとき
善悪の判断を考慮して取り締まることは原則的にはできない。罪を犯した事実に基づいてのみ取り締まることができる。何が罪であるかは法や条例や規則に規定している。よって、悪意で罪を犯す場合と同様に悪意がなくて罪を犯す場合もあるし、中には善意で罪を犯す場合もあるであろう。
警察は悪を取り締まるのが最終目的である。
悪を取り締まるために法や条例や規則がある。しかし、悪だけを取り締まることは不可能である。ここから悪でここから善ですと言う境界なんてどこにもないし、そんな恒久的な境界を設けること自体に意味がない。善悪の判断は個々にしかもその瞬間における判断の集大成である。よって、善悪の境界には善とも悪とも判断しかねるグレーゾーンが必ず存在する。
警察はグレーゾーンも含めて取り締まることになる。
裁判官は「疑わしきは罰せず」であるが、警察は「疑わしきも処分」である。「疑わしき人」を見逃していたら悪人に逃げ場を与えるようなもので、悪を正当化する口実と言い逃れを許してしまう。これでは取り締まりそのものが根本から成り立たなくなる。ガン細胞を排除するためには周囲の正常な組織も含めて切除しなければならないのである。
法や条例や規則違反で捕まったとき、
違反行為の事実だけで短絡的に悪人扱いされるのは冷静に考えるとおかしい。ましてや全人格を否定してしまうような評価を一方的に下してしまうことも冷静に考えるとおかしい。警察は取り締まり行為として違反の事実があったことを証明しただけで善悪の判断をしたわけではないし、違反行為に対してのみ罪が課せられ罰が与えられる。
違反行為に対して善悪の判断をするのは各人であるが、
冷静さを欠いた短絡的な判断は慎まなければならないし、ましてや思い違いや勘違いはもってのほかである。マスコミも同じであり、大衆をミスリードすることは許されないと思うし、大衆に与える影響力を武器にして違反行為のあった人を叩きのめすような行為は許されるべきではない。これらの報道について受け取る側としても冷静に判断する必要があると思う。正義の味方も場合によっては思いこみの正義を他に強要するありがた迷惑にもなってしまう。
警察の取り締まりは違反の事実に基づいて行われる。
前述したように、ここに個人の善悪の判断基準を持ち込んではいけない。しかし、取り締まりの最終目的は悪を断つことであることには間違いない。事実確認は慎重にやるべきであり、ある瞬間の単一の事実だけをもって罪を機械的・事務的に立証されたらたまったものではない。複数の事象があり、継続的に繰り返されている事実はより悪質であることを証明することでもある。少しでも悪に近いところで取り締まることができるよう努力すべきであると思う。
端的で身近な例として交通違反がある。
40Km以上のスピード違反と言っても、市街地の狭い道路と郊外の広い道路とでは悪意の度合いが違う。混雑し歩行者も行き交う道路を高速で暴走することは明らかに殺人行為であり、車が凶器と化している。それをスピード測定器の結果だけで事実認定してしまうのはあるべき姿ではないと思う。
個々の違反行為に個別に対応すると、
担当の警察官が良からぬ事を考え始めたり、横並びで不公平となるおそれがあると考えるかもしれないが、これができるのが警察官であり、これができなければ警察官ではない。単なる取り締まりロボットになってしまう。今の各種の取り締まりはその弊害に陥っていないだろうか?
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