オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

いじめの考察

2006年12月07日 | Weblog

学校からいじめを完全になくしたら、

 いじめる経験もいじめられる経験も知らない児童が育つことになる。いじめ方も知らないしいじめられた時の対処方法も知らない児童ができあがることになる。動物的本能にいじめの性質は埋め込まれている。自然の法則は弱肉強食であり、子孫を保存するために強いものが生き残るのが常道であり、弱いものいじめは常態である。そして、弱いものは弱いなりに自分の子孫を残すための適応を繰り返してきた。弱いものが常に淘汰されるわけではなく、強いものも含めて適応しないものは淘汰されてゆく。また、強いものは場が変われば弱いものに立場が変わるのは常であり、強いものは強いなりに弱点を持っている。

人間であっても強いものが生き残るのは普遍の真理である。

 ただ道徳的に社会的に強いものが弱いものを肉体的または精神的に痛めつけることを戒めている。人間は人間の知恵で強いものと弱いものが共存する術を知っており、子孫繁栄のために限られた資源を奪い合う弱肉強食の熾烈な競争をすることから脱却している。これが人間のやり方であり、力の部分には強いものと弱いものが厳然と存在するが、智恵の部分には強いものも弱いものもない。一人一人の智恵は個性でありそれぞれに貴重である。自然界では弱肉強食の原理で強者も弱者も共存し調和が図られており、弱いものとは言え全てが抹殺されるわけではないし、強いものと弱いものが持ちつ持たれつの関係で調和が取れて必要な遺伝子は残されている。反対に強い者も弱い者無しには生き残れない。

自然界も人間界もそれぞれの道理とやり方で調和が取れている。

 問題は変化に対応できない場合である。変化に対応するためには意志力が必要である。意志力とは、まずは現在の自分の行動を正確に認識することであり、その次に過去の経験に基づいて現在の行動の適否を判断することであり、最終的に将来の方向を定めて現在の行動を修正し決断して実行することである。動物は本能に基づいて行動している。人間は高度な智恵に支えられた経験に基づいて行動している。高度な智恵とは自分だけの経験でなく人類発祥から築き上げられた文化に支えられている。だから、高度な文化を学び取り自分のものとするのが人間の条件である。

人間も何も考えずに自然に任せて行動すればいじめが生じる。

 自分の子供だった頃を考えてもらいたい。必ずいじめたりいじめられたりの経験があるはずである。それが自然なのである。そこを通過点として人間の条件である高度な文化を学び取ってゆくのであり、これを教え諭すのは一日の長である先に生まれた先輩である。先輩は学校の先生だけではない全ての先に生まれた人間である。1日でも先に生まれればその一日分の経験を後世に伝えてゆかねばならないし、人類発祥の時点から蓄積された人間の英知を教え込まなければならない。自然界の動物は生まれ落ちたその日に独立するが、人間の子供は20年経って成人する。それまでは人間の条件である高度な文化を教え込まれる。教え込まなければ人間でなくなる。

そう考えると「いじめ」は根絶してはならない。

 人間形成のための重要な通過点なのである。いじめたりいじめられたりを経験して人間の条件を獲得してゆくし、いじめをきっかけにして人間の条件を教え諭してゆかなければならない。教えることをしないがために「いじめ」が動物的な弱肉強食の生存競争の様相を呈しているし、これをそのまま放置して問題が大きくなって右往左往している。その対策を「いじめ」の根絶とし、いじめた者を厳罰にし、いじめを見過ごした者を同罪とし、いじめを指導できなかった者を処分すると言う。これは自然の法則に反している。これでは本能としてのいじめが絶滅してしまうし、いじめのないところに競争心も闘争心も起こらない。また、他の個体に対する最初の能動的な働きかけができなくなってしまう。ジャブで先制攻撃して様子を見ようとすると「いじめだ、やめろ」と言われ禁止されてしまう。いたずらやちょっかいでさえいじめの兆候だと思われる。

相手の存在価値が大きくて競争心を増幅させればさせるほどいじめの心理が働く。

 それは競争心の一番最初の段階である。その後にフェアープレイの原則やルールを教わる。そのままに放置していると殴り合いの醜い喧嘩になって力の強い者が生き残る世界を展開する。ルールに則ったフェアープレイで強者の栄誉を勝ち取ることが人間には要求される。だからこそ、フェアープレイの精神とルールを教え込まなければならない。最初は野蛮な取っ組み合いの喧嘩から始まるのが自然であり、普通である。取っ組み合いの喧嘩を野蛮だと辞めさせれば次の段階に進むことはできない。人命や傷害の危険がある喧嘩は別として、たいていの喧嘩は見過ごして見守ってやるのが通常の処置である。ほとんどは、同レベルの年代間のいざこざの突っつき合いの中で学習し学んでゆく。それが集団生活を教えることであり、ひいては社会生活を円滑にやって行く素地を作る。

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