オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

少年法の見直しについて(その2)

2008年04月15日 | Weblog
実態はどうか知らないが、マスコミの報道を見ていると、

 厳罰主義のアメリカの現状を見せて、日本も見習うべきだという主張が強い。そして、政策担当者からの日本の現状分析や必要性に対する説明はあまり聞こえてこない。「日本としてどう考えているのか」が見えてこない。前にも述べたように、少年に対する刑事罰は教育的意味と罪の償いという両面の意味がある。基本的には大人も同じで、教育(矯正)的意味と罪の償いの両面の意味があると思う。現在の少年法の考えは、少年はいまだ未熟であるために、刑事罰は教育的意味を重視して「罪を憎んで人を憎まず」の考えを貫いたものと思う。

罪の償いを重視することは被害者の側に立ったものであり、

 教育的意味は犯罪者の側に立ったものである。このふたつの均衡をどこにするかが問題である。被害者の側に立った場合、その意味は報復的なものとなり、犯罪者の側に立った場合は人道的な意味をもつ。少年法の見直しは形としては被害者の側に立ったものであるが、厳罰にすれば少年の犯罪意識を変えることができ、教育的意味もあるというのは乱暴である。教育は強制ではなく、お互いのやりとりの中で本質を理解させることである。少なくとも家畜をしつけるのとわけが違う。

解りやすい例として死刑判決の裁判結果を見てみると、

 その判決理由はだいたい「計画的かつ残虐な犯行であり反省の色が見られない」という趣旨である。私は、裁判において死刑にするのは被害者の命と犯罪者の命を対等に考慮したものであると思う。しかし、裁判の時点で被害者の命はすでに存在せず、取り戻すこともできないが犯罪者の命は存在する。それでも犯罪者を死刑にしてその命を奪うことの意味は、犯罪者に反省の色がなく将来も犯罪(殺人)を犯す可能性が高い場合であろう。すなはち将来の犯罪(殺人)を防止し、将来の被害者の命を守るために犯罪者の命を奪う「死刑」であると思う。

原始的な「死刑」は報復であり敵討ちであり復讐である。

 それは被害者の憎しみをはらすための「死刑」でもある。しかし「死刑」のあるべき姿は、一時的な「憎悪」でなく、被害者の立場も加害者の立場も考慮した人道的かつ客観的な考え方によるものでなければならない。昔は犯罪を裁く制度も犯罪者を扱う環境も整っていなかったために原始的な「死刑」がなされていたが、現代はそれだけでは許されない。憎しみや報復や見せしめのためだけの死刑であってはならない。

しかし、将来の犯罪(殺人)を防止し、将来の被害者の命を守るためとは言え、

 その犯罪者が将来犯罪(殺人)を犯す可能性があるかないかを結論づけるのはむつかしい。死刑判決が困難な神の決断を必要とする所以であろう。犯罪者が殺人を繰り返す度にその犯罪者を死刑にすべき必然性は高まるが、そこに至るまでに多数の被害者の命が奪われてしまう。被害者の側に立てばいたたまれない。また、犯罪者の命を奪う「死刑」ではなく、永久に社会から隔離する「終身刑」もあるが、奪われた命と犯罪者の命を比べて犯罪者の命をそれ程までして特別に保護する意義が果たしてあるのか疑問である。

アメリカで少年犯罪に対する先進的な試みがなされていると聞いた。

 殺人を犯した少年達を保護施設に集めて、その少年達に劇をやらせる。劇の内容は、少年の犯した殺人事件そのものである。他の少年は殺された被害者やその家族や関係者を演じ、その殺人犯人である少年は主人公としてその殺人犯人そのものを演じる。しかも忠実にその当時の犯行を事件の背景も含めて再現させる。観客は劇に参加しない犯罪を犯した少年であり、その施設の職員である。そして、劇の途中で、なぜそうしたか、その時被害者はどう思ったか、家族はどう思っているかなどを主人公に質問しみんなの前で答えさせる。途中でその少年は泣きながら罪を悔い劇を続けられなくなると言う。それでも劇を続けさせる。これを何度も何度も繰り返す。すなわち、自分の犯した罪を事実として細大漏らさず徹底的に認識させるのである。

犯罪少年は自分の犯した罪を事実として認識していないことに問題があるという立場に立っている。

 自分のやったこと、相手の気持ち、家族の気持ちを理解でき、自分の犯した罪に起因して取り返しのつかない害悪を殺された被害者も含め多くの人に及ぼしている事実を徹底的に理解させれば二度と同じような罪は犯さないと言う考えである。この試みは多大な成果を上げているそうだが、自分の犯した罪の事実を徹底的に認識させることの重要性を示唆するものであろう。本来は裁判そのものがこの意味を持っているが、これを教育的な立場からより効果的にした試みであろう。

いくら少年でも犯した罪は事実として認めてもらわなければならない。

 これを「子供のしたことだから大目に見よう」と見過ごしてはならない。罪の償いも、教育的罰もしっかりと受けなければならない。この原則を無視すると罪を犯した本人も周囲の者も反省しまた教訓とすることはできない。当然被害者の気持ちも治まらない。現在の少年法は運用段階であまりにも教育的になりすぎて少年を社会から隔離し、社会の見えないところに置いて罪の償いや教育的罰を受けさせているが、その内容が甘過ぎるという声が大きい。殺人を犯した少年が短期間で社会復帰しその犯罪歴は抹消され、通常の社会人として普通に生活している。本当に罪の償いと教育的罰を受けているのか確認する術はない。

犯罪を犯した者はまずは、被害者の側に立った罪の償いをしっかりとやるべきであり、

 少なくとも被害者への本人の謝罪は当然であろう。そして、罪に対する本人の認識が果たしてどれ程かを確認しなければならない。それは裁判の内容で明らかになる。これを少年保護という名目で(被害者にも)公開しないのはおかしいと思う。少年保護の目的に反せず、なおかつ公開することは可能であると思う。また、罪と認識すれば被害者と加害者の関係で第三者を介して裁判が行われるべきである。前回も述べたが、少年法改正を年齢の引き下げだけで終わらせてはいけない。
少年刑事罰の対象年齢引き下げ効果疑問:http://blog.goo.ne.jp/ugotn/e/f9c551c12278e4c47ded42c80978f59d

少年が教育的罰に比重を置いて裁かれるのは正しい認識であろう。

 本来は大人であっても理想はそうあるべきである。「少年」の定義をどこまでとするかの議論はまた別であり、これをもって問題が解決するとは思わないし、諸外国の例を引いて真似しても日本での問題解決になるとは思わない。問題は、少年を裁くに当たって教育的恣意が強すぎて本来の被害者側に立った罪の償いが軽視されていることと、教育的罰を有効に機能させるしくみをつくることと、裁判の経過と結果を少年保護の目的を逸脱しない範囲で公開することであり、そのための責任区分と手続きをしっかり作ることであると思う。

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