自由を主張すると自ずと束縛が生じる。
自由を主張するということは自分の意志を表明しその実現を図ることである。自分の意思を持つということは自分からその行動を束縛することであり、その意志を他人に表明すると言うことは他人からもその行動を束縛される。例えば、ゴルフが上手になりたいと思えば、自ら練習に励みトレーニングもしなければならない。コンペに参加すれば他人の目も気になり、いい加減なプレイはできない。ゴルフが上手になりたいと思って活動を開始しただけで自分の行動が束縛されてゆく。この束縛から逃れたければゴルフをやめればいいが、ゴルフをやりたいという意志とゴルフをやるという行動がなければ自由を謳歌することはできない。自由を主張すると自ずと束縛が生じる。
この束縛をイヤだと言って拒否することは、
例えばゴルフをやりたいという意志を捨てることである。いつまでも束縛されることをいやがっていたら何もできないし、何も進展しない。ただ生存しているだけである。束縛される時間と束縛されない時間の比がその人の人生の価値を決めるのではないか。全く束縛されない人は自分の意志を持たない人であり、その人生の価値は認められない。がんじがらめに束縛されている人は厳しい修行中の人でありすばらしい成果が期待できる。普通の人は半分気楽に半分束縛されて生きている。みんな半分ずつであればバランスが取れるが、半分以上を自由気ままに生きて束縛されていない人は誰かに借金していることになる。若いときに束縛された生活をし、年を取るとともに気楽に生きる人もあるであろう。
何事か人より抜きんでたことをやろうとすれば、
徹底した束縛を自分に課すことになる。自らそういう環境を望んで、その中に飛び込むことでもある。自分の意志も大切だが、環境が人を作る。この頃、このような強烈な意志を持った人とか、そういう人を鍛える場面とかを目にすることが珍しくなってきた。師匠と弟子、親方と見習いの関係であり、稽古場や作業場であり、当然弟子や見習いは住み込みで四六時中寝食も忘れて修業に専念することになる。生活の場が修業の場であり、あらゆる機会を利用して師匠や親方から技と心を盗み取る。個人の自由時間もプライバシーもない。こんな昔の話を持ち出すと、古くさいと笑われるかも知れないが、スポーツの世界にはこの風潮が残っており、一流選手の若い頃は監督やコーチの家に住み込みというのも珍しくない。
才能や能力のある天才でなければ、
人から抜きんでたことはできないと思っている人が多い。また、このような天才を見つけて育てるのが教育だと思っている人がいる。大いなる勘違いだと思う。才能や能力はなくても人に抜きんでた努力で立派な成果を出すことができる。それをやろうという個人の意志を尊重し、努力が無駄にならなような指導をし、修業の場を設けるのが教育だと思う。特に「伝統の技」というものは「天才」ではなく「庶民」が支えてきたものである。この技を生来の「才能」だと思ったら大間違いである。
人に抜きんでたことをやるためには人並みならぬ努力が必要なことを教育することも忘れている。
「学問」ばかりに偏重しすぎて技術を軽視する傾向にある。そのために入門者は、努力の賜である技術のすばらしさを実感できず、自分の才能のなさを嘆き、努力しても無駄だと最初から諦めてしまう。「勉強さえできれば」「良い学校に行けさえすれば」だけでは伝統の技を継承することはできない。天才の発想や才能だけでは技術を支えることはできない。本来は「努力」なしに「学問」も「技術」も成就することはできない。努力することは自分を束縛することでもある。
何を言おうとしているかと言うと、
「自由!自由!」と騒いでいる人をよくよく観察してみると、ただ単に束縛をいやがっているだけの人が多いということである。いやだったら拘わらなければいいものを、大声を出して他人までも巻き込んで自由を主張する。しかも目的のために自らを束縛して努力しているもしくはしようとしている人達に向かって「無駄です止めなさい」と説教をしようというお節介ぶりである。束縛から解放されることだけが自由であると勘違いしている。自らの意志で自らを束縛するのも自由であり、自ら敢えて束縛の中に飛び込むのも自由である。当然、自らの意志を放棄するのも飛び出すのも基本的には自由である(ただ、周りから「三日坊主」と言われるだけである)。
自由を主張することは、他人の自由を奪うことでもある。
その主張は他人に理解できるものでなければならない。「イヤだ」「やりたくない」「疲れる」というだけの理由で自由を主張されたらたまらない。そのツケはどこかの誰かが払わなければならない。少なくとも何をやりたいのかはっきりさせなければならない。そのやりたいことに価値が認められれば他人も協力してくれるであろうが、その主張が拒否されるのもこれまた他人の自由であり仕方がない。自由を主張するのにも大変な努力がいるのである。ただ文句を言っていればいいのと訳が違う。
親や先生や上司や先輩は子供や生徒や部下や後輩を束縛することを恐れてはいけない。
鍛錬し修練するということは目的に向かって努力することであり、そのためには束縛は必要不可欠である。束縛がなく個人の自由意志に任せられているだけでは向上も進展もない。子供や生徒や部下や後輩は束縛されることをいやがってはいけない。また、自らの掲げた目的のために自らを束縛する勇気を持たなければならない。束縛から逃れることだけが自由だと思ったら大間違いである。どういう束縛を課すかが個人の自由であり、この束縛について誰にも指図される謂われはない。
「学ぶ」の根本は「真似ぶ」であり、
真似をすると言うことは自分を型にはめることから始まる。これは束縛以外の何物でもない。この段階を踏まないで「学ぶ」ことはできない。親や先生や上司や先輩は、その人の10年後20年後のためを思って「型」を用意しなければならない。教育とは聖職であり難しいのである。単なるお仕着せの教育では人は育たない。考え直すべきである。
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