「欲」と「知」の反対語はなんだろう。
この頃、電車の中や歩いている時や待ち時間にボーっとしている時、しきりと考えていることである。くだらないことであるが、いまだに私の中で答えが出ない。欲の反対語は無欲であり、知の反対語は無知であるが、これは否定語であり、反対語ではない。欲や知には反対の概念がないのだろうか。「愛する」の反対語を「憎む」と答えるのは普通であるが、もっと正しい答えは「無視する」である。「愛する」の反対は「無視する」なのである。「憎む」は相手の存在そのものを認めていることで「愛する」と共通である。もっと言うと「愛する」と「憎む」の間に「無視する」という概念がある。
「欲」と言うと悪い意味に聞こえる。
禅の世界では無欲無私が貴ばれるが、生来人間は「欲」を持っていると思う。その「欲」を善い方向に向けることが重要で、その方向が物質や金や地位や名誉や快楽や権力に向く時いびつな人生に向かう。「欲」そのものは生きるために必要であり、生きることそのものが生命力と言う「欲」である。強いて言うならば「個人がよりよく生きる」ために人は欲の塊になり、「みんながよりよく生きる」ために個人の欲は善い方向に導かれると思う。欲を捨てることが最終目的ではなくて、すべての欲を捨て去ることにより本当の「欲」が見えてくるのだと思う。宗教における無欲になる修行は通過点に過ぎないのではなかろうか。
「知」も同様である。
生来人間は好奇心を持ち「知」に対する欲求を持っている。生まれて以来「知」は拡大し続けている。無知とは「知」が全くないと言う意味ではなくて、ある分野、ある方面、ある部分に関する知恵が欠落していることを意味していると思う。「欲」も「知」も身体が成長するのと同様に無の状態から常に外部に向かって拡大し続けている。よってこの反対語は概念として存在しないのではないかと思う。
世の中は「有」と「無」だけの概念ではないはずである。
「ある」か「ない」か、「0」か「1」か、「〇」か「✕」かはいわゆるディジタルの世界であるが、このような概念が生まれたのはつい最近のことである。ところが、この頃のものの考え方は常に二者択一を迫られ、単純化された結論を要求する。黒か白かで中間のグレーであることを許さない。やるかやらないか進むか後退するか正しいか間違っているか善か悪かきっちりと答えを出さないと納得しない風潮にある。片方は自分の考えを全肯定し、片方は相手の考えを全否定する。本来であれば全肯定、全否定、の考えそのものが現実社会では存在し得ないものであり、幻想上の空論に過ぎない。現実社会では善と悪が、正と誤が、入り混じって存在し、いいところもあれば悪いところもあるのが通常であり、出された結論も100%正しいとか100%間違っているわけではない。
ゼロを考え出した先人はすばらしい。
アナログの世界は少なくとも「0」か「1」かではない。プラスかマイナスかそして0かである。積極的な考えと消極的な考えと不変からなる。プラスの方向のベクトルとマイナスの方向のベクトルとその中間点のゼロである。善か悪か正か誤かではなくて、プラスにはプラスのよさがあり、マイナスにはマイナスのよさがありそれを足して2で割ったようなゼロにもゼロのよさがある。と言った感じである。「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があるが、「3」と言う数字が重要ではないかと思う。現代の二分法は少なくとも三分法にして考える必要がある。二大勢力が対立する構図ではなく、二大勢力のどちらにも属さない第三の勢力の存在が重要である。そして第三の勢力はある時は片方を賛成し、ある時はもう一方に賛成すると言う融通性をもって臨機応変に対応してゆく。結論を左右するのはこの第三の勢力になる。
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