人は必ず死ぬ。しかし、死ぬまでは必ず生き続ける。
死ぬ事に意味はないが、生きる事に意味があり死ぬまでに生きた事に価値がある。ということは、生きる事に意味を持たせて生きなければならない。何のために生きているのか、どのように生きてきたのか、これから何のために生きようとしてるのかが大事な事である。生きる意味がなければ酷なことを言えば死んだ方がいい。ただ、生きる意味がないと思うのは一時的な思い込みで、生きている限り生きている意味を見つけ続ける事ができる。そんな意味で植物人間は生命を取り戻す可能性があれば意義があるが、その可能性がなければ意義が認められない。しかし、現代医学の水準ではこの境界を決め切れないんだろう。だから植物人間状態で生かし続けてしまう。
現代人は「今」と「将来」に生きている。
これは考え直さなければならない。まずは、生きた人の事を考えなければならない。現在の自分があるのは過去に生きた人の努力の成果であり、文明を築いたのも文化と伝統を継承してきたのも過去に生きた人達の集大成である。それは、死んでしまって関係ない過去の人と思うのではなく、その過去の人が如何に生きたかを見つめて掘り起こす事でもある。当然ながら過去の自分もすでに死んだ人の上に成り立っているし、影響を受けた現存する人もいずれは死に絶えてしまうし、その自分も死に絶えてしまう。残るのはその人達が如何に生きたかと言う事である。そのような中に自分が存在すると言う気持ちを持つ事が重要である。
「今」と「将来」に生きるだけでは生き方を間違えてとんでもない結果を招く。
まずは、自分と他人の関係を築く事ができない。そして先祖を敬う事ができない。他人の過去に関知しないし、他人が築き上げた過去を尊重しない。死に絶えた先祖が生きた功績を知ろうともしないし、先祖の生き様を見ようともしない。そんな人がまずなくしてしまうのは「恥ずかしい」「申し訳ない」気持ちである。誰に対して「恥ずかしい」「申し訳ない」のかというと、他人であり先祖である。そしてこれらの気持ちが湧いてくるのは他人や先祖の過去に触れた時である。過去にこんな素晴らしい事をやっているのに対して自分の現在の姿が「恥ずかしい」「申し訳ない」なのである。「今」と「将来」に生きるだけでは砂上の楼閣を築くのに似て無駄で危なっかしくてしょうがない。
「よく生きる」とは、善良であるだけではない。
生きる意味がなければならない。楽しくて快適で便利で善意に満ちて美しくて健康であるだけでは意味がない。その上で生きる意味を見つけて、その生きる意味のために努力しなければならない。それが何なのかを常に求め続けなければならない。ある時は生きる意味のために命さえ落とすかもしれないし、生きる意味のために苦難を覚悟で命を永らえなければならない。生きる意味のために苦難に耐えなければならないし、身体を切り刻んで精神だけの存在になるかもしれない。反対に生きる意味のためにはどんな苦悩にも耐えられ、身体を切り刻まれる事も厭わない。そして人間は生きる意味のために生かされているのである。
さぁ出かけよう、生きる意味探しの旅へ
生きる意味は自分の中にはない。他人の中にあるし過去に生きた人達の中にある。他人のために働き、先祖の築き上げたものを引き継ぐ事に自分の生きる意味がある。自分の周囲を変えてゆく事、影響力を行使してゆく事、これが生きる意味だと思う。自分の殻に閉じこもっていてはいつまで経っても生きる意味を見つけることはできない。ただ、自分の見つけた生きる意味を実現させていくのを決意するのも実行するのも自分の意志であり、実際に実行するのも自分である。そういう意味では自分との戦いでもある。自分で生きる意味を見つけ、その実現に使命を感じ、その実行を勇気を持って行う、失敗しても挫折しても思うような結果が出なくてもやり続ける意思は自分との戦いの中で表に出てくると思う。さぁ、自分の生きる意味は何だろう。
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