オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

人間関係

2006年05月31日 | Weblog


「何もやってくれない」と文句を言う人がいる。

 何故やってくれないかを冷静によく考えてみると、最初はやってくれていたはずである。最初からやってくれないような人には最初から期待しないはずであり、やってくれると期待していた人がやらなくなったために困って文句を言っているのであろう。その人を変化させた理由は何だろう。たぶん過去にやっても無駄だった数々の事実があるのだろう。その経験をさせたのはやって欲しいと望んでいる人達である。やってもらったことに無反応で、評価もしてくれなければ喜んでもくれなかったのだろう。その積み重ねの結果が「何もやってくれない」になったのであろう。

何かをやろうとする人は、人を喜ばすためだけにやっているわけではない。

 やろうとするそのものの価値を認めてやっている。誰のためでもないのである。ところがやった結果として相手が価値を認め喜んでくれないなら結果的にはその人のための努力は報われない。よって、次からは他の人に対して努力してやることになる。よく考えると「何もやってくれない」と文句を言う側に問題があるようである。人間は無意識に心地よい環境にあることを望む。その心地よい環境を作り上げるのはやってくれる人とやってもらう人の両者であり、どちらかというとやってもらう人が一生懸命良好な人間関係を築き上げる努力をしなければならない。

やってもらう人が「やってもらって当然」と考えている場合があるかも知れないが、

 こう考え始めると同時に、やってやる必要性は薄れはじめ、この人に対してはやらなくてもいい、もしくは優先順位を下げてもいいと無意識に判断してしまう。最初は一生懸命やってくれていた人が、いつの間にかやってくれなくなる理由はその辺の所にありそうである。継続的にやってもらうためには継続的にその成果を認め評価し賞賛して、その気持ちを相手に確実に伝えなければならない。また、単なる繰り返しにしないためには新たな付加価値を認めてやって成果をもっと発展させてやる必要がある。そうすれば次もやり甲斐を持ってやってくれるはずである。

人間は条件反射で行動している。

 自分では主体的に行動しているつもりでも、客観的に見れば単純な条件反射の繰り返しであり、複雑に見えるのは、それらが思考の中で複雑に絡み合っているだけなのである。人間の一日の行動の大半は習慣によっている。寝る時間から食事、風呂、仕事、スポーツ、趣味、読書、テレビ等々ほとんどが習慣に左右されている。この条件反射による習慣を変えることは容易である。その習慣を変えることが主体的に生きることになる。新しいことを始めるとは、新しい習慣を取り入れることである。一日の、一週間の、一ヶ月の、一年の予定の中に新しいことをする時間を設定することである。

どうせ取り入れるなら良い習慣を取り入れよう。

 悪い習慣を良い習慣に徐々に変更していけば、生活はすばらしいものに改善される。同様に、人間関係もお互いの習慣の中で築き上げていけばすばらしいものに改善される。良好な条件反射が常に働いている状態にあることが良好な人間関係と言える。良好な人間関係を習慣化するためには「約束を破らない」「誠意を持って対応する」「期待に応える」「価値を共有する」「喜びを分かち合う」等が必要になろう。「今さえよければいい」という考え方ではとうてい良好な人間関係は築かれない。特に若者によく考え反省してもらいたいものである。

悪い習慣が直せない人は、何もしないでそのままほったらかして放置している人である。

 近視眼的に見ればこれが一番変化も労力も伴わないで楽である。何でもかんでも悪い習慣を直せとは言わないが、少なくとも良い方向に向かって改善はすべきである。そのためには新しい良いものを取り入れなければならないし、古い悪いものは捨てなければならない。その努力を怠っているのが悪い習慣が直せない人である。何が悪くて何が良いかは主観的なもので、ある人から見たら悪い習慣の塊のような人であっても「新しい良いものを取り入れ、古い悪いものを捨てる努力」を続けている人は賞賛すべきであり、いずれはすばらしい人物に成長する。

人間関係において「何もやってくれない」と文句を言う人は、自分を反省しなければならない。

 実は、自分が何もしていないのではなかろうか。「何かをやってくれた」から「何かをやってやろう」と思うのではないだろうか。まずは、自分から始めないと何も始まらない。前に述べたように、ほったらかして放置しているだけの状態になってしまう。そこが人間関係の本質でもある。自分から最初に始めたことは通常自分にとって報われるものは何もない。無駄に終わるかも知れない。他人がその価値を認めてそのお返しとして自分のために何かをしてくれたことで初めて報われる。期待すべきものではないが、自分の成果が認められた証である。そのことの繰り返しが人間関係ではなかろうか。

出発点を間違ってはならない。

 まずは、人のため、家族のため、世間のため、社会のため、国のため、世界のために自分で何ができるかを考えなければならない。そのことにより全体の中の自分の地位・役割と価値が見えてくる。どんな些細なことからでもいいから、とにかく始めること、そして全体の中の自分の地位・役割と価値を認めてもらえるように努力することである。認められれば自ずとその賛同者が自分のために協力してくれるはずである。賛同してもらえないのは自分の努力が足りないかやり方がまずいのであろう。さぁ、一体自分の何が役に立ててもらえるのだろう。考えてみよう。


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