オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

評論家

2007年01月30日 | Weblog

人間のしゃべる言葉の解釈は難しい。

 とってもすばらしいことを自分から述べたとすると、その人は自分で述べたことをすばらしいと感じているはずであり、すばらしいと感じるということは自分がその状態にないことになる。すでに自分がすばらしい状態に十分に達していればそのこと自体を「すばらしい」とはあまり感じないはずである。すばらしいことを強調すればするほど自分にそのすばらしいものが少ないことを表現していることになる。自ら真実だと訴える人は、真実だと訴えなければならない理由があるはずであり、少なくとも自分が思っている真実が周囲から疑われていることを感じているはずである。本当に真実なら自ら訴える必要はないし、一生懸命訴えれば訴えるほどその人の持つ真実が疑わしく思えてくる。自分で真実だと思いこみ納得しようとすればそのもの自体は真実から遠ざかって行く。

正しいことを自ら主張する人は、これまでのことが間違っていたことを認めたことになる。

 正しいことを主張しさえすれば良いわけではない。正しいことを主張したら今までの間違っていたことを反省し改善しなければならない。正しいことを主張すればするほど間違っていたことが明らかになり、その間違っていたことを是正する行為がついて回る。そうでなければ無責任であり意味がない。根本的な本質的な正しいことを主張すれば、根本的に本質的に反省し改善しなければならない。よく政治家が「抜本的な改革」などと言うが、あまりにも大きな「正しいこと」を主張したために、具体的な改善策が見当たらず「抜本的な改革」と言う言葉で取り繕っているだけで本質的には無責任である。「正しいこと」を主張する人は「それじゃあ自分でやってみろ」と言われても対応できるくらいの責任の範囲で「正しいこと」を主張しなければならないと思う。

相手に対し「真実を述べなさい」と主張したとすると、

 まずこの人は相手の言うことを信じていないことになり、言われた人は自分の言っていることが嘘だと疑われていることになる。真実を述べよという必要があると言うことは目の前の発表内容が疑わしいと思っていることにほかならない。目の前の発表内容が真実だと判断すれば納得して受け入れるしかないはずである。何を真実だと思っているかは「真実を述べなさい」と主張する人にしか判らないし、もしかしたらこの人は自分の考えた「真実」を押しつけようとしているのかも知れない。こんな人に真実を話すわけがないし、話したとしても納得してくれるわけがない。話は平行線のままである。「真実を述べなさい」と言うこと自体が無意味である。それよりも主題に関する全てのことを聞き出して、その中から真実を見つけ出す方が得策である。嘘も誠も全てを理解できれば真実は自ずと客観的に見えてくる。

ただし、これが評論家になると話は変わってくるのがおもしろい。

 評論家は自分のことではなく自分に関係ない他人を評論する。しかも評論しようとする行為は自発的ではなく他人から求められて行う。当事者と関係のない第三者的な立場で関係ない他人を、関係ない他人から請われて評論するのである。こんな無責任きわまりないことはない。どんなに正しいことを述べても、どんなに間違ったことを述べても自分への直接の責任は生じない。自分は評論の対象とは無関係であり、評論した内容を精査するのは評論を聞く側の責任で評論家には無関係である。自由な立場で評論できるのが評論家の良いところかも知れないが、反面無責任きわまりないのも評論家である。よって評論家の意見はほんの参考情報程度に聞かなければならない。本当に聞かなければならないのは当事者同士の生々しい主張であり意見であるが、マスコミの発達した現代は種々雑多な評論家の意見であふれかえっていて本来の事実や真実が見えなくなってしまう。困ったものである。

評論は事実でも真実でもない、ただの意見でありひとつの考え方に過ぎない。

 そして、評論家は自分の考えた意見やひとつの考え方を述べたに過ぎない。ところが、この評論が情報の主要な部分を占めるようになる。知名度や肩書きや所属する組織の大きさや権威に応じてただの一般人はこの評論を信じ込んでしまう。評論によって事実や真実とは違った新たな情報が生まれ増殖して行く。反対にこの手法を使って情報操作をすることを企てる者がいる。間違っていけないのは、まずは自分の感性を信じて事実や真実に基づいた自分なりの判断をし、その結果を大事にすることである。その後に参考として評論家の意見を聞くのが賢明である。権威に弱いのは自分に自信がないからであり、主要な部分が自分の判断で、細部の内容や方向を評論家の意見を参考に修正することになる。時々天地がひっくり返るような斬新な評論に出会うことがあるが、多くの場合は新たな観点から新たな発想に基づいて評論しているだけで見方は新鮮ではあるが、事実や真実そのものは変わらないし変わるはずがないのである。

日本人は一億総評論家の時代に突入したと言われる。

 なぜ評論家に成り下がってしまったのか考えてみると、どうやらテレビが元凶のようである。テレビは当事者とは関係ない第三者的な立場で関係ない他人のことを見せつける。そしてテレビの内容には見る人が関与できないし、テレビ側から見る人個人に関与することはない。言ってみればテレビ番組を作る人も見る人も直接には関係せずお互いが無責任きわまりない評論家の関係である。このテレビの中の世界が現実世界をも支配する。日本国民は現実世界をまるでテレビでも見ている感覚で眺めている。「自分には関係ない」という感覚である。結果的には無責任であり、目の前の現実逃避を可能にし、傍若無人の振る舞いに抵抗がなく、目の前に現存する人に対する思いやりが欠如し、他人の意見は平気で無視し、他人から無理矢理注意を受けると戸惑い何でだと激怒する。テレビの画面から振り上げた拳が出てきて「コラ!」と怒られることはないのである。

さあて、ここまで書いてきて、この書いた内容はひとつの評論であろう。

 どのように自分で責任を取ろうとしているのだろうか。まずは、ひとつの意見を主張する時、その反対側に立って考えてみることを自分でも実行しなければならない。前述の内容を読む側から考えてみると、じゃあ誤解を解くためにはどうしたらいいのかという疑問が出てくる。この考えに従えば誤解を解こうと努力すればするほど深みにはまることになる。誤解とは正悪の判断でもないし優劣でも勝ち負けでも損得でもない。良かろうと悪かろうと相互に理解し合えばいいはずである。それなのに正悪や優劣や勝ち負け損得にこだわるからおかしくなるのではないだろうか。お互いに対立するのでなくぶっちゃけた関係が一番いいようである。対立した途端に断絶が生じる。次にお互いの関係を「仲間」とすることである。関係のない他人の関係ではいつまで経っても意見が平行線のままか発散してしまう。お互いが当事者であることを認識できる関係が重要であるし、そのような意識を持って物事を観察しなければならない。そう自分自身も反省しつつ筆を置く。

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