オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

思いつくままに電車の中で

2008年07月09日 | Weblog

モバイルのノートブックを活用している。

 パソコンとのつきあいは長い。もう25年以上になる。パソコンの走りのNECPC8800の時代を思い起こせば隔世の感がする。A5サイズで何でもできる。電子ブック閲覧については、テキストデータを縦書きできてまるで本を読んでいるみたいに閲覧できるソフトが秀逸である。大変重宝している。モバイルパソコンはもっぱらデータ入力とパソコンデータを読み込んで外出先で手軽に閲覧できる道具と化している。つい最近、電車で小旅行する機会があったのでこのモバイルパソコンでレポート作成を試みた。以下がその記事である。

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一人の運賃だけでは電車には乗れない。

 みんなでお金を出し合ってはじめて電車に乗れる。電車はみんなのもので、いくら運賃を払っていると言っても、乗車区間に乗っている間のしかも乗客数分の一の権利しかない。そうであれば、電車に乗っている間は努めてみんなに迷惑をかけないようにしなければならない。運賃を払っているからと言って自分一人の電車ではない。自由奔放なわがままは許されないのである。

混み合っている電車で、

 二人分の席の真ん中で優雅に座っている妙齢の女性がいる。私はあなたがどんなに美しくしくとも、あなたとお友達にはなりたくない。あなたは周りの人の気持ちを理解できない人だから・・・。 みんなにそう思われているということを早く気づいて欲しい。せっかくの美人がもったいないですよ。

年功序列は世の中が浮動状態の時には浮ついた心を落ち着け、

 長期的な視野に立って仕事をすることができる環境を提供した。しかし、安定状態になると年功序列の意味があまりなくなる。安定状態になったら実力主義の考えも取り入れて年功序列を見直さなければならない。これを既得権として旧態依然のままにしたら年功序列の中で安住してしまい、害悪を及ぼすばかりである。基本的には年功序列にも実力主義も一長一短があり、うまく使いこなさなけれならない。実力主義ばかりでは近視眼的なその場限りの損得勘定ばかりの考え方が蔓延することになるし、年功序列だけでは既得権に安住した生産性のない硬直化した組織になってしまう。

日本の中央集権体制を改革すべきであるという論議がある。

 日本人の封建主義体質を変えるべきだと言う人もあるし、政治に道州制を導入せよと言う人もいる。中身が悪いのか入れ物が悪いのかと言う論議であろう。日本人の封建体質を直せと言われても、長年の伝統と歴史の中で培われたものであり、一朝一夕に直せるわけがない。少なくとも二・三世代(100年くらい)はかかるだろうと思う。ある日を境に日本人の考えががらりと変わるなんて気持ちの悪いものである。敗戦後の国家の大転換にあっても、表面的な形は変わっても日本人の考え方そのものはしぶとく変わっていないのが現実である。政治に道州制を導入せよといっても、欧米で道州制が採用されているからというのが主な理由である。欧米の国民には道州制が合っているかも知れないが果たして日本人に道州制が合うかどうかは解らない。強制的に形だけを合わせても本当に機能するかどうかは疑問である。

西洋医学と東洋医学は考え方が違う。

 西洋医学は分析的であり局所の病変を重視する対処療法であるが、東洋医学は総合的であり全身の調和を整えることにより局所の病変を直そうという自然療法である。私に言わせればどちらも一長一短があり、あるべき姿としてはふたつのいいところを足し合わせたものであり、状況により個別に使い分ける必要があると思う。

自由を目指して制度や規則を作ることは矛盾している。

 自由を目指すなら何も規制や制限を加えずほったらかしておけばいい。基本的にはほったらかしておくのが基本であり、ほったらかしておけない部分について最小限の規制や制限を加えるのが原則である。そしてその制限や規制はあくまでも自由度を保ったみんなの納得できるものでなければならない。

責任を取ると言うことは、

 権限を行使して行った結果に対して生ずることである。権限を与えないで、また権限を行使することもできなくて、結果が悪かったら誰か(通常は代表者)に責任を取らせて済ませているのは何かおかしい。責任を取らされた人も「何で私が・・・」「他にも悪い人が・・・」と合点がいかないはずだ。権限を与えられ、その権限を行使した結果については当然責任を取るが、権限も与えられず責任だけを取らされるのは言語道断である。行使すべき権限を放棄して責任を免れようとするのも言語道断である。責任と権限は明確に規定しなければならない。誰が権限を行使しているのか不明確で、誰が責任を取るのかも不明確で、問題が起きたら誰かを犠牲にしてトカゲのしっぽ切りをするのはいい加減にやめにしてもらいたい。

イジメは画一化の反動である。

 規則は形だけで縛るものではなく心の問題である。心に訴える規則はその守り方はそれぞれに多種多様であり、個性を潰すものではない。しかし、形だけの規則は画一的であり、細部まで規制し、例外も認めない没個性の社会を作りあげる。画一的な強制社会は「画一」からはずれた人を特異な目で見る。これがイジメに通じる。「画一」でないことが前提であれば特異な人がいても何も気にならない。「画一」でないことは個性である。「画一」でないことが前提であれば思う存分個性を発揮することができる。個性を発揮しても特異な目で見られることはない。  学校教育も社会も「画一」ばかりである。「画一」にしているのは日本国政府である。国はよけいな干渉や規制による過保護をやめてもらいたい。国民や地方自治体はそろそろ「自立」しなければならない。敗戦後60年以上になろうとしているが、意識改革、構造改革の変換点にあると思う。急激な改革はできないが、地道で具体的な改善の積み重ねを心がけなければならない。


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