A、B二人の人がいて、
同じ条件、同じ環境、同じ立場で同じ厄災にあって困っている場合、Aに対しては面倒を見てくれる人がいて周囲に呼びかけて援助を要請し手厚い援助を得られたが、Bには面倒を見てくれる人(発起人)がいなくて何も援助を受けられなかった場合、これを不平等と言えるだろうか?Bにしてみれば大変な不平等を感じるだろうが、援助する側にしてみれば援助するかしないかは個人の自由であり、これを強制する方が自由平等に反する。
問題は面倒を見てくれる人(発起人)のやり方である。
この人が強権を発動して半ば強制的に援助を強要した場合はこのこと自体が自由平等に反することになる。自然発生的な行動であれば問題はないが、作為されたり強制されたり誘導されたりした結果の「援助」であれば問題を残す。発起人がいたから援助してもらえたという傾向があまり強いと個人の自由意志に反した行動になってしまう。あくまで発起人はきっかけを作る(発起)だけに過ぎない。
自然発生的な個人の自由意志による結果、
Aには援助をし、Bには援助をしなかったという違いは何であろう。これはAとBの人格と人望と人柄と信頼関係と交際範囲などの違いか、または単なる偶然の成り行きによるものであろう。そうであれば、AとBの待遇の違いは不平等ではなく自由平等の精神に反するものではない。Aにすれば当然の権利であり、Bにすればこれまでの自分の行いの報いであり巡り合わせが悪かったことになる。
個人の自由意志が正常に発揮される環境であれば、
A、B二人の待遇の差は不平等ではない。しかし、日本の場合は通常集団の意志に影響される傾向が強く、また、単なる個人の集団でなく組織の一員という立場では職務上の権限の影響を受けてしまう。組織力と集団心理をうまく使えば「人格」とか「人望」とか「人柄」とか「信頼関係」とか「交際範囲」などに関係なく手厚い援助を集めることが可能になる。これは発起人の手腕にかかっており、これではA、Bの待遇の差は不平等になってしまう。不平等にしてしまう原因は日本人の集団心理である。
自由平等は、個人の権利を自由に発揮できる環境で実現する。
個人の権利が自由に発揮できないような強制や制約を受ける環境では本来の自由平等は実現しない。日本の自由平等がいびつなのはここに原因があると思う。100人中99人が賛成でも、最後の一人が堂々と反対意見を述べられるような環境でないと、また一人一人の権利意識が多数意見にもめげないくらいの自由に対する意気込みと気概を持っていないと本当の自由平等は実現しない。バラバラの個性を持った個人が集まって社会が成り立っているということを前提に議論をしなければならない。常識的な中庸の平均的な人達の集まりが社会であるというのは幻想である。その幻想に縛られていると個性の発揮も発展的な発想も封じ込められてお互いに足の引っ張り合いと権利の譲り合いと責任のなすりつけ合いをしているだけの状態が生起する。
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