物質はその存在を直接に確認することができる。
そういった安心感と信頼感がある。物質は物体として存在し、その物体には重さがある。物質には重さがあることが当然のことと思っている。無限小に近いほどの量子にさえ重量があり、重量があるゆえに観察することができる。素粒子のニュートリノでさえ実験施設で観察できるが、電荷を持たずに他の物質と反応しないために地球でさえも瞬時に通り抜けてしまう。こんな物質を科学分野では一生懸命探求し続けている。
物質から離れて考えてみたらどうだろう。
存在はするけれども物質ではないものがたくさんある。例えばAとBの関係である。AとBが物質だとしても、AとBの関係は物質ではない。しかし、その関係なるものは明らかに存在するのである。ある物質が多数のもので構成されている場合は、それぞれの構成する要素は物質かもしれないけれども、その組み合わせそのものは物質ではなく当然重量もない。組み合わせは多数存在するが、どの組み合わせであっても当然物質ではない。
我々人間の脳の働きはどうだろう。
科学的には突き詰めると電気信号によって機能しているようであるが、この電気信号の流れによって脳が機能しているのであれば、電気信号は電子の流れであり、電子は物質とも言える。しかし、電子がどのように流れるかの組み合わせは無限大にあり、前述のように組み合わせには重量はなく物質でもない。物質ではない我々人間の思考が存在しているのである。この思考は自由に時空を飛び回ることができる。これこそ人間の魂ではないかと思っている。
人間が死ぬと肉体と言う物質が消滅するとともに一個の人間の組み合わせも消滅する。
この組み合わせが消滅することが「死」なのかもしれない。しかし、組み合わせが出来上がる前にも生命は存在しているのである。この「生命」こそ永遠の存在なのかもしれない。この「生命」さえ存在すれば、新たに組み合わせを創造することができるのである。こう考えると、この世に存在するのは物質そのものだけではなく、その物質相互の関係と組み合わせこそ重要なのではないかと思っている。ただ物質が存在するだけでは意味をなさないのである。
人間関係も一緒のような気がする。
人間と人間の関係は、人間そのものではなくて、人間と人間の関係が重要なのである。自分自身を非難しても相手個人を非難しても何の意味もない。自分と相手の関係に注目して、可能であれば良好な関係を築いてゆく努力をし、良好な関係が困難であれば関係を絶つことになる。そして、ほとんどの場合はお互いの関係は全くない状態なのである。全世界の人達と関係を確立するなんて不可能である。そう考えると肩の荷が下りて気楽になることができる。
我々人間は一体何を悩んでいるのだろう。
何も悩むことはないのである。いろいろなことを考え過ぎなのかも知れない。何をそんなに過剰なことを考えているんだろう。人間そのものに執着しないでお互いの関係に目を向けていけばいいのである。相手がどうであろうといいではないか。まずは相手をあるがままに認めることから始めればいい。そして自分のあるがままをぶつければいい。そこにお互いの関係が生まれてくるが、その関係がどうなるかはやってみなければわからない。当然、お互いが良好な関係となるように努力はするが、最悪は無関係でいいのである。
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