数々の国際的な賞に輝いた人、国際的な場で活躍した人、
国際的な組織の代表として選出された人などなどを考えてみると、「エッ、あんな人が?」とか「こんな人知らないよ」という人が多い。例えばノーベル賞では私の経験するところで、物理学賞の江崎玲於奈氏、化学賞の福井謙一氏、文学賞の川端康成氏、大江健三郎氏、平和賞の佐藤栄作氏、生理学・医学賞の利根川進氏である。ご本人には申し訳ないが、いずれも私の感覚では受賞当時は候補にもならないくらいの人にしか見えなかった。これは仕方ない。国際的評価と国内的評価にギャップがあったのである。我々一般庶民はこの国内的評価で考えているのである。専門分野の人達の評価はいざ知らず、一般の人達は国をあげて「エッほんと?」と思っていたのではないかと思う。
一旦、国際的評価を受けると日本国内でも有名人となる。
日本国内では評価されないが、海外では評価され、海外で功績をあげ国際評価が高くなると、日本国内での評価も上がる。よぉ~く考えると何かおかしいと思いませんか?海外の評価が安易すぎて日本の評価が厳しいわけでもない。そうであれば海外でいくら評価されようと日本の評価は変わらないはずである。どう考えても日本国内の評価基準は一定でなく周囲に影響されているようである。海外の顔色を見ながら評価を下していることになる。ということは、価値そのものの評価をしているのでなく、評判によって評価しているのである。これを国をあげてやっていて何も恥ずかしいと思っていない。反省し改めるつもりもなさそうだ。困ったものである。
日本は少し「実力主義」を取り入れた方が良さそうだ。
特に、形だけの封建的な組織を残している分野には「実力主義」の風を送り込んだ方が活性化されいい結果を生むと思う。旧態依然たる形だけの封建的な組織は時代の流れに乗り遅れて害悪を及ぼしている。言っておくが封建主義が一方的に悪いのではない。変わろうとしない、変えようとしない、既得権益にしがみついている権威主義、制度主義、年功序列などの旧態依然たる体質が悪いと言っているのである。新しいものの価値を認め、積極的に取り入れ、古い体質を改善する新陳代謝をしないとどんなにすばらしい組織でもいずれは腐ってしまう。
「実力主義」を取り入れようと言っても、
具体的にどうしたらいいのだろう。・・・・・・・・。まずは、各人に機会が均等に与えられなければならない。次にその能力を適正に評価しなければならない。そしてその評価に応じた地位が与えられなければならない。学校の運動会の徒競走で言うと、まずは全員に走る機会を与えなければならない。走る走らないは本人の勝手である。無理に強制的に走らせることもない。ただ、機会は均等に与えなければならない。次に、順位の判定は公正・公平かつ厳正にやらなければならない。必要であればルールも決めなければならない。ルールさえ確立すれば健常者と身体障害者が同等に順位を争うことも可能なのである。そして、成績上位の者は「優秀」として評価しみんなで賞賛してやらなければならない。必要に応じて賞品も与えなければならない。このような考えに抵抗があるようでは「実力主義」を取り入れることはできない。
「実力主義」は「差別」に通じると言う人がいる。
これは偏見だと思う。優秀な人は事実として優秀なのであり、この事実を歪曲することはできない。優秀でない人も優秀であることを認めなければならない。そのためには、①各人に機会が均等に与えられること②評価が公正・公平かつ厳正であることが必要であり、これにより優秀と認められた者には③評価に応じた地位が与えられること、となる。これが「差別」だと言う人は、評価を「全人的な評価」と勘違いしているのではないか、もしくは自らが全人的な評価の尺度しか考えられないのではないかと思う。評価内容は明確でなければならない。訳の解らない全人的な評価では公正・公平かつ厳正に評価することはできない。
たとえノーベル賞受賞者でも全人的評価を受けたわけではない。
物理部門で、化学部門で、文学部門で、平和部門で、生理学・医学部門で最も具体的に貢献したことに対する評価である。反対に、その部門以外は評価されていないことでもある。たとえば、全然関係ない音楽や芸能部門では彼らは門外漢である。音楽・芸能部門でそこそこの人達は彼らに優越感を持って何も問題ないと思う。実力主義とはこのようなことであり、何も「差別」には通じない。ひとつの評価を全人的な評価と勘違いするから「差別」と感じるのだと思う。
国際的評価と日本国内的評価のギャップは、
各部門毎の個別評価と全人的評価の差ではないかと思う。日本の場合はある部門だけ突出して能力を発揮している人をあまり認めようとしない。また、特定の期間だけ集中的に能力を発揮した人も認めようとしない。あくまで全人的評価が先で、万人が全人的評価を認めたという事実をもって過去の功績を讃えて評価する。その評価の内容は一般的に曖昧で包括的であり具体性に欠ける。具体的な功績をあげても全人的評価がついてこないとその功績は認められない。全人的評価とは通常、積み重ねの実績であり、経験であり、地位であり、年功であり、人格であり、人柄であろうかと思う。
日本国内で評価されようとすると、
単発の偉大な功績では無理なようである。小さな功績を地道に積み上げて地位を獲得し、実績を積んで、長年かけてようやく評価されるようである。この風潮はどこから来たのだろう。江戸、明治、大正、昭和と歴史を見てもこのような風潮はあまり見られない。強いて言えば、安泰の世にこの風潮があり乱世にはないと言えるであろうか。詳しいことは専門家に任せて、私の知る限りでは日本国内でもいつの世にも立派な才能の持ち主が氏素性に関係なく評価され活躍している。どうやらこの風潮は戦後独特のものではないかと思える。
日本での評価が全人的評価になったのは、
適正に個別の評価を下す人が不在になったからではないかと思う。「あんたは偉い」と断言できる人が居なくなったのである。みんなの顔色をうかがって「みんなが「偉い」と言えば自分も「偉い」ということにしよう」と言う評価である。「私はみんながどう言おうと「偉い」と評価する」ときっぱりと断言する人がいなくなった。特に上に立つべき人にこの傾向が強い。そして、「偉い」という評価を厳密に積極的にやろうとしない。新しい「偉い」を認めると昔からの「偉い」人の領分を侵し反感を買う。反感は買いたくない。そのためには評価を曖昧にするしかない。反対に「偉くない=努力が足りない」人の評価も明確にしない。功績をあげた人もそうでない人も一緒くたにしてかき混ぜて判らなくしてしまう。これではやる気も失せてしまう。
要するに、自信を喪失しているのである。
はっきりと評価を下し、堂々と意見を述べればいいと思うしそのような環境を創り出すべきである。そして自己の権限は当然のこととして行使すればいいのである。まわりのご機嫌伺いや人気取りをする必要はないのである。どうも戦後以来この堂々たるきっぱりとした毅然とした自信がそれぞれの地位の人に感じられないのである。それ故に後に従う人達も頼りなさと不信感を感じるのである。いくら努力しても認められないのであればやる気も失せてしまう。はっきりと、誰が何と言おうと、事実として功績のあった者は、年功や地位や経験や実績に拘わらず「あんたは偉い」と上に立つ者が直接評価を下し応分の賞賛と地位と報酬を与えるべきである。
喪失した自信を補うべく海外の評価に頼るのは間違っている。
国内にいる大多数の実力者が救われない。もしくは実力者が海外に流出してしまう。国内に埋もれた実力者はやる気をなくしいつしか普通の人になってしまう。そして、いずれは旧態依然たる組織の一翼を担うことになり、旧態依然たる組織の後継者となる。どこかで変えないと未来永劫これが繰り返されることになる。勇気を持って厳正に評価すべきであり、評価した結果は適正に扱われるべきである。当然評価内容は客観的事実をもって具体的に各別になされなければならない。全人的な評価ではないのである。
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