オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

インターネットの匿名性について

2009年05月30日 | Weblog

私のホームページの中では、私の個人的な情報はあえて公開していない。

 はっきり言うと「匿名」である。個人情報を公開して正々堂々と意見を発表すればいいのではないかと言う批判の声もある。しかし、このホームページに記事を書く人とこれを読む人は対等でなければおかしいと思う。記事を書く人だけが個人情報を公開してこれを批評し意見をする人が不特定多数の匿名の人では不公平である。よって私はホームページの中では、私の個人的な情報は公開していない。もし個人情報を公開するにしてもペンネームを使ったりプライバシーに抵触しない範囲に限定すると思う。

この記事を書いている「私」はこの「オクトシティー正直村」というホームページの中でしか存在しない。

 読者もこの「オクトシティー正直村」というホームページの中で大いに意見を出してもらいたい。読者が個人情報を明らかにして意見を述べるなら私も個人情報を提供してそれに応えるであろう(強制力はなく自由だが・・・)。これで記事を書く人とこの記事を閲覧する人や意見を述べる人とは対等になる。ホームページ「オクトシティー正直村」はあくまで私的なものであり私の私有物である。公的なものとは一線を画さなければならないし公的な権限を持つものでも強制や統制をするものでもない。内容も不特定多数に向かって発信しており、個人や特定の集団を攻撃したり擁護するものでもないしその意図も全くない。読者は閲覧するのも閲覧を止めるのも意見を発信するのも拒否するのも無視するのも自由勝手である。私も私の私有物であるこのホームページをどのように運営しようと自由勝手である。

公的なものと私的なものは区別しなければならない。

 公的なものは情報の出所や根拠を明確にしなければならない。政府広報や企業広報や報道・出版や商用ネットワーク等であろう。出所や根拠のはっきりしないものは「公的なもの」として認められないし具体的な責任権限や契約行為も伴わないことになる。反対に信用してはならないと思う。一般大衆を相手に責任権限のある活動を展開する個人なり組織は大衆に向かって必要なプライバシーは公開しなければならない。これを実現するのが情報公開制度である。公的な責任ある立場にある人はある程度の個人的なプライバシーを公開することは必要なことである。ただし、責任権限を履行するために必要な最小限のプライバシーであり、何でもかんでも公開しろと強制するのは許されない行為である。「知りたい」「知りたくない」「知らせたい」「知らせたくない」権利は基本的な権利であるが相矛盾する権利でもあり、調和を図る必要がある。

インターネットは完全に開かれたネットワークである。

 このネットワークを利用するに当たって、個人のプライバシーを守る手だては考えておかなければならない。例えば通信販売で商品を購入した場合その購入に際して提供した個人データはしっかりと記録され活用される。街頭のアンケートに答えたり、アンケートはがきを出したり、懸賞に応募したり、製品のユーザー登録をしたりなどなど考えればいろいろな場面で個人データをせっせと提供していることになる。いい加減な業者はこのデータをあちこちに流用しているし顧客データとして売りつけたりしている。インターネット上ではもっと効率的に個人データを収集できる。アクセスした途端に少なくともURLで識別される。もし仮にプロバイダからURL情報が流出していれば特定の個人と結びつけることは簡単である。

インターネット上に個人データを公開することは危険だと思う。

 大衆の面前で無差別に個人のプライバシーを拡声器を使ってぶちまけているようなものである。少なくとも公人でない限り個人のプライバシーを証すのは相手を特定して信頼できる相手であることを確認して行うべきであると思う。たとえメールアドレスであっても個人的なものと公的なものを使い分けるのが望ましいと思う。複数のメールアドレスを持つことは可能であり変更することも自由である。この機能を悪用して悪事をはたらいて正体を消す輩もいるが、この機能はプライバシーを守る有効な手段でもある。いたずら電話に悩まさた人が電話番号を変えるのと何ら違いはない。口座番号なども同様にネットワーク用と本来の個人用とを使い分けるのが望ましいと思う。

インターネットは善意のネットワークである。

 根本は「善意」に支えられている。よって「悪意」に利用されると現段階においてはひとたまりもない。対策はこれから考えられると思うが、当面はインターネットとはこんなものであるという認識はしっかりと持つ必要がある。責任権限や金銭授受や契約に係わる重要事項などは他の手段と併用して万全を期さなければならない。匿名の相手を簡単に信用してもいけないし、不特定多数の相手に個人データをむやみに提供するのも考え物である。日常生活の延長で考えれば当然のことと納得できると思う。電話を受けただけで一面識もない人を全面的に信用したり、街頭の人混みの中で個人情報を不特定多数に配布したりするのが常識はずれであることと同じなのである。ただし、公人である人は「悪意」で利用されることも覚悟して活動の一環として自らの意志である程度のプライバシーを公開することになる。あたかも選挙の時選挙カーや街頭演説やポスターでPR(Public Relations)するかのように・・・。

インターネットを支えるのは「善意」である。

 インターネットが「悪意」に満ち満ちていたら誰もインターネットを利用しないであろう。ただしこれだけインターネットが普及すればこれを「悪意」に利用する人達も現れる。この人達を排除するのは個人個人が用心深く対処するしかない。「善意」におぼれてすべての家の鍵を無くして無防備にしてしまえば泥棒達の天国になってしまう。無防備であることは悪人達の天国を許しているようなものである。自由に解放され便利であることは反面では無防備であることでもある。その分は他の旧来の手段を併用して信用確認をするのが常識でもある。一人一人が地道な防衛手段をすることにより「悪意」がはびこることを阻止できることになる。

個人で対処できないような高度な技術を使った「悪意」に対処するには、

 何らかの対策をしなければならない。その対策により防御壁を可能な限り高くしておけばその「悪意」は一部にとどまるであろうし、誰にでも「悪意」が可能だというのでは実用には供し得ないことになる。インターネットによる信用取引をするためにはまだまだ課題がありそうである。「悪意」の実現を困難にするとともに「悪意」を立証できるような仕組みを考えなければならないだろう。人間社会から泥棒を完全に排除することは困難であるが泥棒を許容しながらも社会生活は成り立っている。ただし社会全体が泥棒で満ち満ちていたら社会生活は成り立たない。インターネットも同様な環境が展開されてゆくだろうと思う。何もインターネットだけが特異で特殊で特別なわけではない。


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