人間は自己を客観視する能力を持っている。
動物は自己を客観視することができない。自分は自分であり、存在そのものであり、自分を外側から見る能力はない。他の動物は自分と全く異なった個体であり、自分と他の動物との違いを認識する必要さえない。そういう意味では動物はお互いにそれぞれが同じであるし、自己という認識さえ存在しないのだろう。動物はそれぞれが自由に行動し、自分の行動した結果に基づいて反応していることとなる。弱肉強食の厳しい生存競争の中にはあるが、自由といえばこれほどの自由はない。
人間は自己を客観視する。
自分を外側から客観的に観察することができる。赤ちゃんが自分の手を見つめて、その手を動かしてみて、脳から命令を出して手を動かしてみて、どのような命令を出したらどのように動くかを繰り返し学習している。このようなことを多岐にわたり繰り返し反復学習し、人間として成長してゆく。そう考えると、幼児期の学習が不完全な状態では動物と同じで自己が認識されていないのである。曲がりなりにも自己が確立され自己主張ができるようになる時期は、それぞれに違うのだろうが、反抗期と言われるものがその現れであろうか。
脳が出す命令が知能である。
その命令に応じて、端的に言うと筋肉が収縮して指が動く。その動いた指を五感で感じて、その結果が脳に送られ、その刺激に応じて脳は新たな命令を出す。これが永遠に循環して人間は生きている。そう考えると、筋肉を動かすこと、五感を働かせること、脳を活動させること、これらがいかに重要であるかがわかる。これこそが学習なのである。そう考えると、現在の教育が脳を働かせる知ばかりのような気がする。学校で椅子に座って視聴覚教育を受けていても本当の学習にはならないのである。当然、子供にテレビや、ゲームや、スマホや、映像などを与えるだけでは学習は成り立たないのである。反省すべきである。
また、家庭における学習がいかに重要であるかがわかる。
少なくとも、五歳くらいまでの教育は家庭でなされるのが理想なのである。少子化にも関わらず幼稚園、保育園が足らないと言う。矛盾しているとは思わないのだろうか。事実は、基本教育前の教育は幼稚園、保育園任せにするのが普通になっているのである。これでいいのだろうか。反対に言うと、共働きしなければ生活が成り立たない現状があるし、両親が子育てに専念できないような環境がある。少子化対策と言うが、この部分を何とかしなければならないと思う。核家族化が劇的に進んだことも原因の一つだろうが、子育てにおじいさん、おばあさんが登場することが、少子高齢化両方の解決に大いに貢献するのではないかと思っている。家庭での子育てが充実するし、教育の質も画期的に改善されるのではないかと思う。少子化の原因の一つが家庭教育の質の低下であるとも思っている。家庭を大切にすることすなわち幸福な家庭を築くことであり、子孫を繁栄することであり、人生の協力者を得ることであり、生き甲斐を生むことでもある。そんな当たり前のことを教育の場で具体的、実践的、経験的に教えなければならない。
人間は自己を確立するだけではない。
その自己を他人に投影することができる。他人の立場に立ってものを考えることができる。自分が他人だったらどうなのだろうという思考を巡らせることができる。他人を自分と同化させる能力を持っているのである。幼児の頃はこの能力が未熟で、自分がどう考えるかのみで行動することになる。成長すると、目の前の他人であったらどうするだろうかと考えることになる。最初の頃は目の前の他人が全くの赤の他人では同化が難しいので、生活を共にする親密な関係の他人(父母、兄弟、祖父母など)となるのであろう。自分と他人を同化させる能力は五歳位で確立されるようである。
子供が人見知りをするとよく言われる。
これは、未だに自分と他人を同化する能力が低く、初対面の赤の他人の思っていることが類推できずに、宇宙人と同じようなものであるから、人見知りをするなと言っても無理な話である。小学校に入学したばかりでは、新しい友だちと親しくできない子供もたくさんいる。彼らにすれば、これだけ多くの人達と自分を同化させた経験がないのである。人間の成長段階で見られる特徴的な現象でもある。最初から動物と同じように成長させたら、何のためらいもなく、お互いが自由に集団行動できるのであろう。人間が社会的な動物であるという所以である。
もっと成長すると、他人が自分をどう見るかというシミュレーションができるようになる。
他人の自己を過去の経験から類推し、その他人の自己が自分をどう見るかを考えることができる。それによって自己を律したり、相手の反応を予測したり、自己の範囲を拡大させたり、冷静で客観的な思考が可能になる。ところが、これにあまりにも囚われると、下手をすると精神疾患さえ招きかねない。自己喪失である。本当の自分とは何だろうと、もう一度子供の頃に戻って自己を見つめ直す必要がある。あくまで、他人との同化や、他人の自己の類推から得られる情報は参考情報にしか過ぎない。社会生活を円滑にするために人間が獲得した道具にすぎない。
もっと進化すると、個人の集合である社会がどう考えるかに至る。
しかも、個人の集合である社会が一人の個人のような錯覚を持って振り回される事となる。現代社会が正にそうではないのだろうか。一生懸命自己を喪失しないように努力しないと、それこそとんでもない精神疾患状態になってしまう。人間はいい加減な動物であるともいう。周囲の反応にいちいち反応しないで取捨選択して好き勝手に生活している。反対にいい加減だから柔軟な思考ができるのだし、飽和して機能不全になることもないし、個性を発揮してしっかりとした自己を保持することができる。いい加減な人は嫌われるが、いい加減でないと人間は生きていけないのである。
このように考えて、それでは自己とは何だろう。
根本に帰れば、動物と同じと考えなければならない。自分の存在そのものが自己である。その自己に対して一体何だろうと問いかけてもよくわからない。自分でも自己が理解できないのが普通なのである。それでも個々の意識を自己に問いかけるとしっかりと反応してくれる。どのように反応するかは解らないが、とにかく確実に反応し答えを出してくれるのである。総体は分からないが個々には存在するのである。だから、総体を理解しようと悶々とする必要はないのである。大いに自己を楽しめばいいのである。ただ、自己は他人を同化したものでもないし、他人の立場に立って確立されたものでもないし、ましてや社会を擬人化したものでもない。ただ、日本人は他人を同化したり、他人や社会を擬人化して考える傾向が強いようである。要は本来の自己がおろそかになっている気がする。また、この事により、西欧や外国と考え方の違いが生じて、あちこちで誤解を招いているような気がする。もっと大いに自己主張しなければならないのだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます