学校で数学の問題を出したそうである。
生徒の答えは2だったと言う。確かに2aからaを引いたら残るのは数字の2である。これも一つの考え方であり、記号で見るとその通りである。こんな考え方を無視してはいけない。こんな考え方もあるんだと言う柔軟な考え方をすべきなのである。教育の場において、こんな答えを出したら、頭ごなしにバカにするような言い方をして指導するのだろうが、その途端、生徒は委縮し、後悔を強いられるだけでその後の柔軟な思考の扉は閉じられてしまう。
このような答えを出したことは教育の絶好のチャンスなのである。
数学的に2aはaが2つと言う意味であること、ここから一つのaを引くと残るのはaが一つである。これは約束事で、2aは2×aを略したものである。この基本的なことをよく教えていないために、答えが「2」になってしまうのである。この時に、「2a-aはaになるんです。覚えておきなさい」と指導しても生徒は何も理解しないで暗記することを強制させられてしまう。これでは学問にはならない。
何でもかんでも言えることである。
1+1=2という数式だけでも、本当に理解させるためには膨大な労力を必要とする。何で1+1が2になるのかという疑問に答える必要があるし、もっと言えば数字の「1」や「2」が何を意味するのか、一つのものを分解したものも「1」なのか、地球と砂粒でも「1」は「1」なのか、地球が2つあっても「2」なのか、だいたい、地球が2つあることなんてあり得るのか、なんて考えてゆくと際限なく思考は拡大してゆく。
初めて学問に接する人達はこんな感じなのであろうか?
本当の学問と言えるものは、どんな疑問にも答えられるものであり、難解な言葉でなく平易な言葉で説明できるはずである。そして、解からないものは解からないものとして明確に答えることができるはずである。そんなことを考えると、人間は常に解かったつもりになって、物事を決めつけて考えているが、実際は何も解かっていないことに気付く。解かっているところまでは何となく解かっているがそれから先は解からないのが普通なのである。
「リンゴが2つあります。」と言うが、
2つのリンゴは形も大きさも味も色も表面の艶もそれぞれ少しずつ違うのである。これを同じだと言う仮定から数学となる。ほとんどの人は最初はこの壁にぶち当たっている。そして、ぶち当たったまま成長している人もいる。大学生で分数の計算ができない人がいると言う。これはこの人の先生がしっかりと教育してなかったのだろう。その最初の部分で躓いているのである。原因は先生から生徒への一方的な教育のせいではないかと思う。
お互いにコミュニケーションをとりながら教育するのが普通である。
先生と生徒がやり取りしながら、循環しながら能力が向上してゆく。この頃の教育は上から下への押しつけ教育であり、暗記主体の知識教育である。脳に刺激を受けて、これに体が反応し、身体を動かし、周囲に影響を及ぼし、そこからの反応を五感で感じて、五感からの刺激を受けて新たに脳が活動する。この繰り返し循環が学習でもある。双方向のコミュニケーションで学習は成り立つ。一方的に受け取るだけでは、身体が反応しなければ、繰り返し循環がなければ能力の向上は程遠い。
三分の一を数字で表すと、0.333333333・・・・・・となる。
こんな変なことは現実世界ではない。あるのは無限大と無限小であるが、これを現実世界で実感することはない。はっきり言って、現実世界に数字は必要ないのである。無限大と無限小に向かっていくら数字を数えても無意味でさえある。それでも人間は数字の世界に生きている。数字を無視出来たらどんなにか幸せであろうか。と言うよりも大いに数字を無視したい。まずやりたいのは自分の年齢である。若くても年とっても自分の年齢を数えることに何の意味があるのだろう。数字さえなければ…。
決めつけた教育はあまり意味がない。
「私が正義です」と言う人も最初から怪しい。世の中に絶対正しいものなんて存在しない。正しいことも正しくないことも混在した混沌の状態が普通である。この混沌の中で何とか秩序を維持しようとしているのが現実である。秩序の維持は繰り返しの中で確立してゆくし、状況が変われば秩序も変わってゆく。何をもって「これが絶対正しい」と言えるのだろう。そう思い込んでいるだけである。「私は正しいと思う」と言うのはありである。しかし、それは自分自身の意見である。教える側は自分自身の意見をぶつけながら教育するのである。それが本当の教育ではないかと思う。
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