オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

改革

2007年03月30日 | Weblog

選挙のシーズンで改革の掛け声があちこちで起こっている。

 何でも改革である。果たして改革の意味を理解しているのだろうか。改革をするためには違う文化をぶつけなければならない。民衆に迎合する事なく孤高の文化を英断をもって貫き通さなければならない。果たしてそのような気構えと決断を持っているのだろうか。どう考えてもそんな気概は感じられないし、大衆の人気取りのための言葉だけで威勢はいいが中身がない。候補者の言う改革の孤高の文化とは何なのか見えてこない。

改革の具体的な主体は現場にある。

 現場から具体的な改革は始まる。ところが、改革を唱える人達は現場を見ないし、反対に現場に目を向けないように心掛けている。確かに現場は筋の悪い汚い仕事ばかりであり一々拘わっていたら収拾がつかないし、自分の業績を飾れるような仕事は見つかりそうもない。それでも現場が大切であり、現場が大変なことになっていればいるほど現場を重視すべきなのである。

現場を見なければ、現場の人達も無責任になる。

 懸命に仕事をしても報われないなら誰も前向きに仕事をしない。前向きに仕事をしようとするには、上に立つ者が前向きの具体的な目標を示さなければならない。現場に目が向けられなければ具体的な目標が示される訳がない。現場で何か不祥事が起きた時上層部は何も状況を知らないし、現場に任せて知ろうともしない。そして知らなくて当然と思っている。報道の前で空虚にただ謝罪するだけである。

改革には痛みが伴う。

 変える部分は摩擦もあるし軋轢もあるし犠牲もあるし損失もある。それでも改革しないと意味がない。血を見ない改革なんて改革ではない。見方や考え方を変えただけで本質は何も変わっていない。見た目だけ改革しても仕方ない。どこかを変えればどこかにしわ寄せがいく。それでも改革してどこを変えるべきかを納得させ説得して痛みを分かち合うのである。 

改革には厳格な処罰がつきものである。

 改革に従わない者は厳罰に処する覚悟が必要である。従わなくて済むのなら誰も従おうとはしない。厳格な処分を伴ってもやるべき価値があればみんな従う。何故ならば改革の必要性と意義を納得しているからである。後ろ向きの守りでなく、前向きの攻めの姿勢があれば処罰をも厭わないし、処罰することへの賛同も得られる。

改革と言葉で言うのは簡単だが現実は大変である。

 改革を始めた途端に周囲から嫌われ反対意見が続出し潰される。当然である。痛みが伴い、罰があり、新たな努力を強いられる。それでも改革を推進するためには、それにも増して改革の必要性と意義があることであり、上に立つ者がその必要性と意義をみんなに説得して賛同を得、これを現場に徹底することである。当然改革の主題は現場に直結したもので、現場の改革に通じるものである。こんな改革日本で見たことない。

改革を断行するには強烈な指導力が必要である。

 その指導力は、強烈な権限もさることながら、人間性、人格、識見、能力、人間的魅力などが重要な要素になる。誰でも指導者になれば改革ができる訳ではなく、選ばれた者にしか改革はできない。だから、改革を実行するなら、改革ができる人を選出しなければならない。これを選ぶのは我々国民であり、信任するのも我々国民である。改革を断行できないような指導者は排除しなければならない。

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