山崎豊子の小説の題名ではない。
土地や気候などの条件が悪く、作物などが育たない土地のことである。放射能で汚染されている土地や砂漠などが代表で、土地がやせていて草木が育たなく、何の成果も得られないことを意味する。日本は緑豊かな国で、不毛地帯と言っても鳥取砂丘ぐらいしか浮かばないが、鳥取砂丘でさえ草木が生えて砂漠ではなくなりつつある。ことほど左様に日本の気候と風土と環境は人間が住むのに適した素晴らしい国土である。
しかし、別の観点からみてみると、
日本を「不毛地帯」に急速に変えてしまっている。日本に張り巡らされている道路や都市部のコンクリートジャングルはどう考えても不毛地帯である。そして今現在でもせっせとアスファルトやコンクリートで日本の国土を覆いつくしている。建造物や住宅の立っているところは考えてみると不毛地帯である。そういう我が家も住宅部分は不毛地帯で、周囲の庭は車庫部分を除いて、努めてコンクリートで覆わないよう雑草と戦いながら維持している。
日本国にこれだけのヒトがひしめいて、
それぞれが不毛地帯を作り出している。これが本当に理想的なのだろうかと疑問を抱いてしまう。昔、前川清が「東京砂漠」という曲を歌っていたが、東京は本当に砂漠と同じである。スカイツリーから東京を見渡すと建物が墓場に見えてしまい、まるで不毛の地である。私はこんな場所には住みたくない。そして、建物は高層化し、巨大化し、あちこちにそびえているが、私には巨大な鳥小屋にしか見えない。どう考えても自然を感じ取ることはできない。
世界も同様の開発が進んでいるのだろうが、
SDGsの目標に逆らっているようで考え直す必要があるのではないだろうかと思っている。もっと自然との調和を考えた開発に方向転換すべきではないかと思っている。人間の行なう開発そのものが自然の摂理に反している気がしてならない。少なくとも人間が人工物を開発したら半分は自然を残すべきであり、開発部分ももっと自然の要素を取り入れるべきだと思う。不毛地帯にしてしまっては自然の動植物は死に絶えてしまうし、いずれ人間も滅亡してしまう。
人間も人工物だけの中で生活するとおかしくなる。
文明の利器は便利ではあるが、本来の自然を実感することはできない。どちらかと言うと自然を無視するところから文明の利器が発達したと思う。そして、文明の利器がなくてもヒトは暮らしてゆけるのである。文明の利器に頼り切っている人は手放せないかもしれないが、最初からないことを前提にすれば、なにも困ることはないはずである。文明の利器のない世界も存在し、遠い昔はそんなものなくても生活できていたのである。
そんなことを考える今日この頃であるが、
文明の利器を使わないで自分で工夫して生活するのも一興である。時間を持て余している自由人としては格好の楽しみでもある。ただし、物作りについてであって、思考環境を整えるには文明の利器は極めて有効である。そのために不毛地帯を作り出すことはないし、かえって新しい創造的な暮らしが実現できる。今では情報収集、分析、決断、実行の場において文明の利器は手放せない。将来もこの分野は発展してゆくのだろう。
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