かつて、幼稚園の運動会に行ったことがある。
園児は競技を楽しんでいるようであるが、何となく白けたムードがある。競技は先生達が考え出したものらしいが、どうやら、ルールをきっちり決めていないために、その裏をかいて園児が「ズル」をやっているみたいだ。「ズル」をやるのも競技に勝つためには必要であり、ルール違反でなければ「ズル」ではなく効率的に勝つための立派な作戦である。ルールが不備なためいろんな「ズル」が登場していた。その時、ある先生がある園児に「これは違反だ」と言って、違反のあった位置まで戻してやり直しをさせた。園児にとってはどれが違反でどれが違反でないかわからない。どうやら、ルールは先生の頭の中にあるらしい。こちらのほうが本当の「ズル」である。
先生方の競技の運営方法を見ていると、
指示が不徹底で統制が取れていない。園児は何をしていいのかわからない様子で勝手な行動をしているが、先生方はこれを見過ごしたままだ。見ようによっては、のどかで和気あいあいとした自由な雰囲気ともとれるが、何か違うような気がした。メダカの学校とスズメの学校を唄った童謡がある。先生も生徒もみんな同じで先生も生徒もわからないのがメダカの学校で、先生が先頭に立ちむちをふりふり生徒を指導するのがスズメの学校である。どうやらこの幼稚園はメダカの学校を目指しているようである。
私は、先生と生徒は明確に上下関係があると思う。
上下関係がなければ、先生は務まらないと思う。上下関係を作るのは先生の責任感である。先生は生徒に教える責任がある。生徒は学ぶ義務がある。これをなくして学校は成り立たない。この先生の責任を放棄するところに上下関係は消失し、生徒の義務感もなくなる。先生は、生徒に対し統制力をもって先導し手本を示さなければならない。叱るのも上下関係が必要で、大局的なひとつ上の立場から叱らなければならない。対等の立場で叱るなんてことはあり得ない。それは口論であり喧嘩である。叱るのはあくまでその人の悪いところを直して良くするためであって先生の個人的な怒りや嫌悪感であってはならない。
学校は模擬社会である。
同年代の者同士が集まってミニ社会を形成し、その中でお互いに刺激し合い、いい意味での競争をして、やがて経験するだろう本当の社会生活の予行をやっているようなものである。そのミニ社会での規範(ルール)は「先生」である。先生がしっかりしないと、おかしなミニ社会ができあがってしまう。先生は知識を教え込むばかりが仕事ではない。人間は社会的な動物であり、同世代の若者を集めて共同生活させていれば、自然に社会性は育つものである。先生は、これを悪い方向にいかないように善導するのが仕事である。先生がいい加減なルールを示したり、悪い手本を見せたり、変な矯正をしたりしたら、自然発生的に育っている社会性もゆがんだものになる。
公園で遊んでいる子供を見ていると、
自分達でちゃんとルールを決めて、年上の者がリーダーシップを取って上手に遊んでいる。たまには喧嘩もあるが、それもうまく治める知恵を持っている。このような光景を見ていると、ほほえましく、日本の将来は心配ないと安心する。しかし、お互いに口汚くののしり合い、相手の悪口を言い、最後には捨てぜりふを吐くような子供を見ていると、どんな教育やしつけを受けているんだろうと心配になってくる。(まあ、こういう喧嘩も必要だが)
親子も上下関係が必要だと思う。
当然、親が上で子供が下である。しかし、世間では、この上下関係を持ち出すと変な目で見られる。下手をすると、自分の子供からも「親の横暴だ」と反撃されかねない。上下関係即封建主義、権威主義という風潮のようだ。「上下関係」という言葉が悪いのであれば、保護する者と保護される者の関係である。保護する者は責任を持って子供をしつけ、子供に何かあった場合は全責任を負う。保護される者は保護する者のしつけに対し素直に従い、親の保護下にはいる義務がある。いずれも、保護する者と保護される者との役割をしっかりと果たすことが重要である。そこに親子の関係がある。
それでは子供の自由がないのではないかという反論がありそうだが、
子供は親の言い分に反論し、自由に自分の権利を主張してもらって結構である。親はこの主張に対して子供とよく話し合い、ほんとうにどうあるべきかを人生の先輩として説明し納得させなければならない。この時、「親の言うことは黙って聞きなさい」とか「子供の分際で何を言う」では、それこそ封建主義、権威主義である。子供がどうしても納得せず、親と対立した場合はどうするか、それは、親にも子供の主張を認めない自由があり、保護者の責任としてその主張を断固拒否することは許される。
子供がどうしても自分の主張を通したいのであれば、
保護する者と保護される者の関係を断って自立することである(親子の関係を断つわけではないし、絶交することでもない)。ある時期が来ると当然子供は自立する。それまでは自分の主張が保護者に拒否されても仕方がない。その拒否された無念さが自立のエネルギーとなる。親と子供が友達関係では、必要なしつけはできないし、いつまでも自立できない子供が育ってしまう。
米国は自由主義の社会である。
子供はさぞ自由奔放に育てられているだろうと思う方もいるかもしれないが、そんなことはない。親は子供に対し全責任を負う代わりに、親の考えを子供に対し有無も言わさず強制する。従わない場合は、たとえ相手が幼児であっても子供と納得するまでとことん話し合う。子供はこれに反論する自由が与えられ、その反論を通じて自分の権利を主張をする。主張が親に認められればこの権利を手にすることができる。したがって、小遣いひとつをもらうにしても何に使うのか、その必要性はあるのか、金額は妥当かなどいちいち説明せねばならず大変だという。友達同志の一泊旅行なんてとんでもないというほどの「不」自由さである。
日本の子供は米国の子供に比べると自由奔放である。
しかし、これは本当の自由であろうか。自分の自由を主張するのであれば、当然相手や周囲の人の自由も認めなければならない。すなはち、自由には制限が当然のごとくつきまとう。誰かに寄りかかったままで、勝手気ままな自由を謳歌されたのではたまらない。先生や親は自分の責任を自覚して、子供の自由を束縛するのを恐れずに、言うべき事ははっきり言い、場合によっては強制力をもってやらせる気構えが必要ではないか?
日本人は、相手の意見に反論したり、
自己主張したりすることにためらいがある。これは、相手を思いやってのことであり、謙譲の美徳ではあるが、そこに誤解が生じてはいけない。必要な場合は反論し、自分の意見をはっきり伝える必要がある。その場合、自分の地位・役割、責任・権限を明確にすることが重要となるし、言ったことには当然責任を持たなければならない。この責任・権限が不明確で何となく雰囲気で物事が決定するのも日本人の特性のようである。米国のような、ガチガチの自由主義は日本人に受け入れられるものではない(お互いが性悪説に立った自由主義は悲惨である)が、日本のような、地位・役割、責任が不明確なまま流されて行くのも考え物である。
自由を制限されると文句を言い、不都合が生じると他人のせいにする。
良くあるパターンである。たとえば、学校を子供に開放せよと言う。解放して事故が起きると学校は何をしているんだと責任を追及する。学校は場所を提供しているだけであって、子供の行動の責任は、子供自身、そうでなければ親がとるのが基本である。少なくとも学校は施設管理の面でしか責任がない。それを、事故が起きたこと自体が学校の責任だと言わんばかりである。それでは、事故防止のために父兄のみんなで交代で監視するようにしようと提案すると、「そんなのはいやだ」である。自分のいやなことを、人には強制するとは、どんな思考過程なのだろう。「醜くて、汚くて、嫌悪する政治を他人に押しつけ、やり方が悪いと文句を言う馬鹿」という名言がある。よく考え戒めとすべきである。
いつものことではあるが、話がそれてしまった・・・・・
要は、先生と生徒、親と子供は上下関係が必要である。「上下関係」という言葉が不適切なら、「教える側」と「教えられる側」、「保護する側」と「保護される側」の地位・役割、責任・権限を明確にして、自信を持ってこれを行使すべきである。政治家、批評家、マスコミなども同じで、自分の地位・役割、責任・権限が明確でないために、誤解を招く。地位・役割をはっきりさせると、自分の考え方、態度を明らかにしないといけないし、責任・権限を明確にすると責任の所在が明らかになり発言に対する責任が生じ、その結果にも責任を持たねばならない。
結局お互いに顔を見合わせてはみんなの顔色を窺い、
誰かが言い出しっぺになるのを待っている。そして、形勢を見て有利な方につく。また、失敗すると人(言い出しっぺ)のせいにする。責任をとりたくないのであれば、お茶を濁して逃げることもできるが、それさえも明確に表明しない。反対に、責任のないことをいいことに全然関係ないことに口出しをする。「一体何なのだ!!」と叫びたくなる今日この頃である。
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