新内閣が発足するたびに、各閣僚はマスコミと国民世論の洗礼を受ける。
そのうち一人か二人は辞任させられる。毎回の事なので恒例行事化しているが、冷静に考えると異常なことでもある。その中身をよぉく吟味してみると、ほんの一部の言動を取り上げて、一事が万事と言わんばかりに、全人格評価に近い人間失格的な結論を下す。ほんとうにその人の総合的な評価をしているかと考えると、まだ就任したばかりで情報も少なく、評価できるだけの時間も不十分である。単にその人の一部の言動が気に入らなくて、「嫌い」と言っているだけの気がしてならない。たぶん、気に入らないと感じたのは最初の一部の人だったのだろうが、これがマスコミを通じて報じられると、のっぴきならない情報へと膨らんで広がってゆく。
事実は事実なので間違いないのであろうが、
マスコミの報道は、この事実に勝手な意味づけや解説がついてくる。後半の意味づけや解説の内容について、通常は対象である本人の了承を得てはいない。これが一人歩きして、大々的に報道されたあとで本人がいくら弁解しようとどうしようにもならない状態へ突き進んでゆく。「事実は事実だ」と言われればその通りだが、そんなに重要視するほどの事実だとは思わないのが通常であり、その事実の解釈の仕方も友好的なものから敵対的なものまであるのが通常の捉え方である。これが敵対的な側へ転向したきっかけは何だったんだろうと思うが、これはその時現場にいた者しか解らない。通常はマスコミで公にされることはなく、時が経って裏情報として「実は・・・」と週刊誌などで報じられるのが常態である。
そんなに重要でない事実であれば、無視してなかった事にしてもいい。
通常はこれが正常な反応であろう。反対に明らかな言い間違いや失言やちょっとした冗談は、黙って見過ごしてやるのが紳士的でもある。言い間違いや失言を皆無にするように発言する事は不可能に近く、この制限をつければ自由闊達な意思表示は未来永劫できない。重要な結論で確信的に間違った表現をすることは許されないが、枝葉末節の部分での間違いを意図的に指摘して公に報道されると本来の意思とは違った内容で伝達されてしまう。少なくとも、そのような意図で報道するつもりなら、その場で本人に「このような意味ですか?」と問い質す必要がある。それなしに勝手に解釈されたのでは正確な事実を伝える目的からはずれてしまうし、当然正確な事実は伝わらない。
たとえ、些細な間違いを犯したとしても、
2度か3度くらいは大目に見てやる度量がマスコミにも国民にも必要だろう。あまりにもギスギスし過ぎているし、自由度がすこぶる制限されている。あまりにもこの傾向が強いと、何も行動しないで、何も発言しない人のほうが、何かを積極的に行動し発言する人よりも高評価を受けるという変な事になってしまう。成果を出す機会も与えられれないで辞任させるのはあまりにも乱暴である。現時点でマイナス点はついても将来に挽回の機会を与えるのは当然のことと思う。挽回の機会に挑戦すること自体が我々国民の期待するところである。「失敗は成功のもと」と言う。政治に失敗は許されないが、最終的に致命的な失敗を犯さない限り、中間地点での対策可能な失敗はもっと寛容な心で見守ってやりたいものである。そして成功に向かっての具体的な対策をしっかりとやってもらいたいと思う。
それにしても、安易に辞任してしまう大臣にも呆れてしまう。
何でしっかりと釈明できないんだろう。そしてその釈明で日本国民の誤解を解くことができないのだろう。そのくらいの説得力がないのであれば、政治家失格と言われても仕方ない。マスコミの解釈が間違っているのなら、大いに反論すればいい。反論できないのであればマスコミの解釈どおりの政治家であることを証明したようなものである。すぐに問題点をはぐらかして、「党に迷惑がかかる」「国会運営に影響が出る」「国民に不信感を抱かせた」と言う大義名分で辞任するが、問題の張本人は自分である。党に迷惑をかけないように、国会運営に影響が出ないように、国民に不信感を抱かせないように、自分自身でこの問題に有効に対処することが政治家の責任である。「マスコミや国民が騒ぐからしょうがない」とマスコミや国民のせいにしてしまっているのも困ったものである。このようないい加減な報道する側と報道される側とこれに踊らされる国民がいる限り日本の将来は危うい。悪意の誰かが意図すると日本国民の意思を自由自在に操作できる事になる。「いつか来た道」の反省はまだできていないようである。
そのうち一人か二人は辞任させられる。毎回の事なので恒例行事化しているが、冷静に考えると異常なことでもある。その中身をよぉく吟味してみると、ほんの一部の言動を取り上げて、一事が万事と言わんばかりに、全人格評価に近い人間失格的な結論を下す。ほんとうにその人の総合的な評価をしているかと考えると、まだ就任したばかりで情報も少なく、評価できるだけの時間も不十分である。単にその人の一部の言動が気に入らなくて、「嫌い」と言っているだけの気がしてならない。たぶん、気に入らないと感じたのは最初の一部の人だったのだろうが、これがマスコミを通じて報じられると、のっぴきならない情報へと膨らんで広がってゆく。
事実は事実なので間違いないのであろうが、
マスコミの報道は、この事実に勝手な意味づけや解説がついてくる。後半の意味づけや解説の内容について、通常は対象である本人の了承を得てはいない。これが一人歩きして、大々的に報道されたあとで本人がいくら弁解しようとどうしようにもならない状態へ突き進んでゆく。「事実は事実だ」と言われればその通りだが、そんなに重要視するほどの事実だとは思わないのが通常であり、その事実の解釈の仕方も友好的なものから敵対的なものまであるのが通常の捉え方である。これが敵対的な側へ転向したきっかけは何だったんだろうと思うが、これはその時現場にいた者しか解らない。通常はマスコミで公にされることはなく、時が経って裏情報として「実は・・・」と週刊誌などで報じられるのが常態である。
そんなに重要でない事実であれば、無視してなかった事にしてもいい。
通常はこれが正常な反応であろう。反対に明らかな言い間違いや失言やちょっとした冗談は、黙って見過ごしてやるのが紳士的でもある。言い間違いや失言を皆無にするように発言する事は不可能に近く、この制限をつければ自由闊達な意思表示は未来永劫できない。重要な結論で確信的に間違った表現をすることは許されないが、枝葉末節の部分での間違いを意図的に指摘して公に報道されると本来の意思とは違った内容で伝達されてしまう。少なくとも、そのような意図で報道するつもりなら、その場で本人に「このような意味ですか?」と問い質す必要がある。それなしに勝手に解釈されたのでは正確な事実を伝える目的からはずれてしまうし、当然正確な事実は伝わらない。
たとえ、些細な間違いを犯したとしても、
2度か3度くらいは大目に見てやる度量がマスコミにも国民にも必要だろう。あまりにもギスギスし過ぎているし、自由度がすこぶる制限されている。あまりにもこの傾向が強いと、何も行動しないで、何も発言しない人のほうが、何かを積極的に行動し発言する人よりも高評価を受けるという変な事になってしまう。成果を出す機会も与えられれないで辞任させるのはあまりにも乱暴である。現時点でマイナス点はついても将来に挽回の機会を与えるのは当然のことと思う。挽回の機会に挑戦すること自体が我々国民の期待するところである。「失敗は成功のもと」と言う。政治に失敗は許されないが、最終的に致命的な失敗を犯さない限り、中間地点での対策可能な失敗はもっと寛容な心で見守ってやりたいものである。そして成功に向かっての具体的な対策をしっかりとやってもらいたいと思う。
それにしても、安易に辞任してしまう大臣にも呆れてしまう。
何でしっかりと釈明できないんだろう。そしてその釈明で日本国民の誤解を解くことができないのだろう。そのくらいの説得力がないのであれば、政治家失格と言われても仕方ない。マスコミの解釈が間違っているのなら、大いに反論すればいい。反論できないのであればマスコミの解釈どおりの政治家であることを証明したようなものである。すぐに問題点をはぐらかして、「党に迷惑がかかる」「国会運営に影響が出る」「国民に不信感を抱かせた」と言う大義名分で辞任するが、問題の張本人は自分である。党に迷惑をかけないように、国会運営に影響が出ないように、国民に不信感を抱かせないように、自分自身でこの問題に有効に対処することが政治家の責任である。「マスコミや国民が騒ぐからしょうがない」とマスコミや国民のせいにしてしまっているのも困ったものである。このようないい加減な報道する側と報道される側とこれに踊らされる国民がいる限り日本の将来は危うい。悪意の誰かが意図すると日本国民の意思を自由自在に操作できる事になる。「いつか来た道」の反省はまだできていないようである。
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