オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

メディアは正義の味方であってはならない

2018年10月21日 | Weblog
ある正義は他からは不義である可能性がある。

 正義を主張する人達はそのことをよく考えておく必要がある。自分達が正義だと信じていることが観点を変えると正義でなくなってしまう。一方的に自分達の正義を強制することは暴力でさえある。正義は力で主張するものではなく主張は謙虚であっても大勢の人達の賛同を得て自然に受け入れられるものである。また、民衆を扇動するものではなく、民衆の意見を聞いて柔軟に対応してゆくことができるものでもある。

大多数が正義で少数が不義でもない。

 どちらが正義かは客観的には五分五分である。五分五分だから両方が存在し得る。完璧な正義であれば少数の不義は存在し得ない。人間社会の通常のやり方は現実的であり、完璧を追求することなく現時点で最適の方法を選択し不備な点は修正しながら問題を解決してゆく。その時に採られるのが多数決による決定である。多数決の結果が正しいわけではなく、十分に議論されない状態での多数決はかえって不義の可能性の方が大きい。

体制側が正義で個人が不義でもない。

 これまた正義か不義かは客観的に五分五分である。これを決めるのは体制側でもなければ個人側でもない。その周囲にいる一般大衆である。一般大衆で決まらない時は司法に任せられるが、司法は一般大衆の代表として法に基づいて裁定を下す。体制側であろうと個人であろうと立場は平等なはずであるし、個人が体制を批判することは許されているし、これなしに民主主義は成り立たない。

メディアの報道を眺めていると、

 まずは大多数が正義であると言う考えのもと報道しているようである。常にマスコミは大多数の味方で、大多数の賛同を得るような報道に徹している。大多数が賛同すればこれは正義であると言わんばかりである。これに釘を刺す少数派がいても聞く耳持たずで怪物のごとく飲み込んでしまう。時には大多数を扇動するような報道も見受けられる。扇動する意図は明確ではないが、どこかの誰かの指示で始まるようである。

次は個人が正義だという体制批判が使命だと考えている。

 徹底的に国や政治や行政や大企業や金持ちや有名人を批判する。「強きを挫き弱きを助く」という正義の味方を徹底しているのだろうが、ここでいう「強き」は悪人である。悪人に虐げられている弱い人を助けるのが本当の正義の味方である。果たして体制が一方的に常に悪だと言えるのだろうか?そんなことはないはずである。そうであれば、体制批判も弱き一市民を助けるのも考え直す必要がある。一市民が悪の要素を持っている場合もある。

弱きを助けるだけが正義ではない。

 弱き人達の主張が正しいのかどうかをよく考える必要がある。個人が体制批判をするのは自由であるが、それが正しいかどうかは別の話である。個人が正義を主張すると大挙して個人の味方に立つのはどう考えてもおかしいし、それに対する体制側の言い分には耳も貸そうともせずに批判を続けるのは冷静さを通り越した異常な兆候に思えてしまう。本当の正義が見えなくなってしまう。

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