オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

身内の意見を聞かない島国日本

2018年10月22日 | Weblog

今年もノーベル賞が発表された。

 私が無知かもしれないが、受賞者の名前は受賞の報道で初めて知った。ノーベル賞を取るくらいの人だから日本国内でもっと有名であっていいはずだし、有名になるだけの価値のある人物なんだろうが、生まれてこの方全くの知識を持ち合わせていない。まぁ専門外のために関心がなかったとも言えるが、それにしても些細なことでも日本中で有名になる人の多い昨今、おかしな事象と言えば言えるだろう。

ところが、ノーベル賞を受賞した途端に大騒ぎである。

 いっぺんに有名人となった。そのきっかけは「ノーベル賞」である。海外で認められたことをもって日本でも諸手を挙げて絶賛している。何故その前に日本でも認められ、いわゆる「有名人」の仲間入りができなかったのかと頭をかしげてしまう。日本国内の権威のある方がもしくは権威のある組織や団体が功績を認めて世に公表する機会がもっとあっても良かったのではないかと思う。それともノーベル賞の選考が極秘裏に行われていて事前予測が困難だと言うのだろうか?

それにしても、あまりに埋もれてしまっている気がする。

 がん細胞に対する免疫機能の研究は人類にとってとっても有用なもので、その研究で多大な成果を残している人物であればもっと重用されてもいいのではないかと思うのは私だけであろうか…。もしかしたらノーベル賞には届いていないが同様の多大な成果を残しているにもかかわらずどこかで埋もれている人がいるのではないかと疑ってしまう。日本で埋もれてしまうのなら海外へ進出せざるを得ないと思うのも仕方ないのだろうが、もっと日本国内の環境を変えてやるべきである。

大学卒、修士課程、博士課程という肩書がある。

 日本の場合はこの肩書に本当の実力が伴っているか疑問に思ってしまう。修士だ、博士だと言ってもあまり重用されることがないのではないか。研究部門だけでなく国家機関や企業にも博士の肩書を持った実力者が必要ではないかと思う。何か事があった時に有識者会議とか第3者会議に駆り出される専門家としての「博士」だけではないだろう。常にシンクタンクとして組織の中に組み込んで率先して働いてもらう必要があるのではないだろうか。

修士や博士は研究者としてのスタートラインである。

 修士はまだ研究者の見習いであり、博士でやっと研究者として独り立ちできる。その違いは自ら目標を定めて、課題を設けて、問題点を抽出し、その問題の解決に邁進する姿勢である。これができるのが「博士」であろう。これは政治家にも経営者にも当然研究者にも必要な資質である。そうであれば、「博士」の肩書を持った優秀な人材がもっとあちこちで活躍してもいいはずであるが、そうでもないようだ。

ほとんどの人達が大学卒業で社会人となる。

 大学を卒業しただけでは専門は何にしろ一般教養の範囲内でしか身につかない。本当に極めるならやはり「修士」「博士」なのである。一般教養を身に着けた大学卒の人達が社会人となって実学の「修士」「博士」を目指して社会の中で鍛えられるのだろう。そう考えると学歴なんてそれほど気にすることはない。有名か無名かではなく何を学んだかが重要なんだろう。その基礎知識を駆使して社会に巣立っていくのだろう。卒業しただけでは何の意味もない。

教育の考え方を変えなければいけないのだろう。

 どこどこ大学卒の学歴で評価するのでなく、その人の実力で評価できるしくみが必要であり、学歴で評価するにしても大学を卒業した者の実力が一定のレベルに達していることを検定しなければならない。入学は難しいが卒業はトコロテン式であっては実力は育たない。当然ながら「修士」や「博士」の肩書にも実力を伴うような仕組みが必要であろう。アカデミックな分野に年功序列式を取り入れたのでは競争原理は働かない。

日本人は身内の意見を聞こうとしない。

 島国根性のため周りの日本人は自分と同質のもの(仲間)と思っている。その同等の仲間から何を言われてもあまり関心をひかない。ところが、全然関係ない第三者からの意見は中身がどうであろうと妄信的に従ってしまう。特に外国からの指摘は一発で受け入れてしまう。自分達に日本人としての自信と自覚がないのであろう。日本人同士でも喧々諤々と議論し論争する風潮が必要だし、海外からの指摘にも胸を張って反論する気概が必要であろう。

教育の場も変えてゆく必要がある。

 記憶してやり方を覚えて試験にパスする教育だけではあまり意味がない。誰かが準備したものをこなして問題点も解決法も明らかなものを追随するだけでは実力は養成できない。自ら目標を定めて、課題を設けて、問題点を抽出し、その問題の解決に邁進する姿勢こそが最終的に求められるのであろう。そこの部分を変えていかなければならないと思う。また、研究者としての「修士」「博士」を継続的に育てていく環境が単に研究部門だけでなく、国家機関や企業の中にも整えられることが必要ではないかと思う。研究内容が実学でも重用されることがそういう人材を育てることが社会全体に求められると思う。国民全員が博士の資質を目指して精進することが生涯学習ではないかと思う。


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