オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

経済の自由化はどこまで自由化なのか

2007年08月13日 | Weblog

日本国経済を自由化せよという論調がある。

 しかし、個人生活において考えてみると、社会生活における個人経済を自由化すべきだという意見は聞かない。すでに個人の経済は自由化されており、国の経済はまだ自由化されておらず閉鎖的な状況にあると言うのだろうか・・・。そして、自由化することが理想的であり、自由化することですべての問題が解決するとでも言うのだろうか・・・。どうもよくわからない。

自由化することにより競争が激しくなるのはわかる。

 しかし、それは原始時代に戻ることではなかろうか・・・。そうであれば弱肉強食が激しくなり、生存競争が厳しくなり、富める者と貧しい者が2極分化して貧富の差がますます広がって行くと思うのだが、どうだろう。それをなくすために各国では統制経済によりバランスをとって調整してやってきたのではなかろうか・・・。それなのに、世界規模で考え始めると、国毎にやってきた過去の教訓はさておいて、完全自由化にして、原始の弱肉強食の生存競争社会から始めるというのであろうか・・・。

闇雲に自由化すればバラ色の世界が開けると思ったら大間違いである。

 「自由化しろ」と要求している側は、自由化させることにより利益を得ようとしているのである。また、国内の利益を独り占めすることを許さず、諸外国に解放せよと言っているのである。うまく対応しないと一方的に不利益だけを抱え込むことになる。自由化のメリットは、沈滞した経済に渇を入れ、強引に活性化を図ることであると思うが、ある程度の「競争力」がなければ、自由化しても意味がないし、かえって競争相手にやられてしまう。全滅しては元も子もないので、何らかの法規制を設けなければならない。その法規制を何にするのか、どうやって相手側に納得させるのかが重要であると思う。

自分に都合のいい分野は自由化し、都合の悪い分野は閉塞するのもよくない。

 そんな自分勝手なことは許されない。単なる損得勘定だけで自由化するしないを決めるとこのような矛盾に陥る。損得勘定は別にして、生存と存在そのものは最低限認められるはずであり、そのための権利も認められるはずである。そして存在する限り機会は均等に与えられなければならない。独占することも独占させることも許されないし、他人の権利を不当に制限することもできない。各々が特性に応じて業種の態様と規模が決まってゆき、それぞれが自由に経済活動できる場が提供されることになる。そのための最低限のルールは決めて行かなければならない。

日本経済を自由化すると、

 閉鎖的な社会経済の中で統制経済に守られ努力することなく利益を得ていた集団にとっては恐怖である。努力はしていても世界の競争相手を認識していなかった集団にとっては今まで以上の努力と競争を強いられることになる。世界に伍して十分競争力はあるが国内では利益を獲得できなかった集団にとっては願ったり叶ったりである。自国が自由化すれば諸外国に対しても自由化を要求できる。自由化によって改善されるのは努力もしないで利益を得ていた集団と、努力してはいたが努力の足らなかった集団である。

しかし、世界と戦える実力がなければ自由化も意味がない。

 確かに国内だけで見れば、努力しないもしくは足らない集団を頑張らせる効果はあるが、世界レベルで見ればその弱点をさらけ出してしまうことでもある。その弱点につけ込んで競争力のある外国企業がなだれ込んでくる。手放しで自由化に突っ走るのも考えものである。「自由化」「自由化」と騒いでいる人達は果たして勝算があって言っているのかと疑問になる。それとも、自由化によってもたらされる不利益に勝る効果が期待できると思っているのだろうか・・・。国内経済を改善するための自由化は大賛成だが、自由化による危険には何らかの対策を暫定的にでもしなければならない。

個人レベルで言うと、

 世界に向かって闇雲に自由化を唱える人達は、個人におけるプライバシーをも放棄せよと言っているに等しい勢いである。「国」という単位にも個人と同じようにプライバシーが存在すると思う。国毎にそれぞれの個性があればそれぞれにプライバシーがあるのは当然である。当然、個人の人権と同様の国の国権があると思う。その国権を主張することは間違いではないはずである。一方的に自由化してすべてをスッポンポンの裸にしてしまい、無防備のままさらけ出すのがベストとは決して思わない。

自由化、自由化と騒ぐ人達の主張はちょっと眉唾で聞かなければならない。

 自由化と、自国を守るための権利の主張は調和をとらなければない。完全な自由化は理想ではあるが、現実には諸外国同士の利権獲得が渦巻く中では危険でさえある。諸外国もそれぞれの事情に応じた権利を主張するのは当然である。その考え方がまさに「民主主義」であり「自由主義」である。権利を主張する国同士の公平平等な交渉の結果、契約や条約が結ばれ秩序が形成されて行くのがあるべき姿である。自由と権利は表裏一体のものである。自由化を騒ぎすぎる人達は、現状に不満な人で、現状をひっくり返すことによって挽回を図ろうとする人でもある。

諸外国に市場を拡大して行こうとする業種にとっては自由化は追い風になる。

 しかし、諸外国に市場を拡大できない業種は生存競争に負けて潰されることになる。諸外国に市場を拡大できない理由は「業界の先頭集団ではない」と言うことであり、その中身は資本力であり技術力であり独創性であろう。世界の先頭集団しか自由化の波の中で生き残ることができないとなると、ちょっと困ったことになる。先頭集団の予備軍を育てる機会がなくなってしまうし、先頭集団はますます後方集団と格差を拡大し、独占・寡占の状況になってしまい、行き着く先は歴史の示すとおりこの独占・寡占状態を打破するための自由化・民主化を掲げた「革命」が起こってしまう。

自由化において重要なのは、諸外国に対して何を主張して行くかである。

 自国の経済を成り立たせ、より発展させ、自国の権利を守るために何を主張すべきかを明確にすることである。自由化するためには自国のアイデンティティーを明確にしなければならないし、諸外国も納得できる主張をしてゆかなければならない。主張したことは諸外国からも当然の権利として要求されることになる。閉鎖すれば諸外国からも閉鎖されるし、開放すれば諸外国も開放する。それを選択するのは基本的には自国の自由意志である。それが自由化であろうし、具体的には現時点においてどこまで閉鎖するか、またはどこまで開放するかを国家間でひとつずつ明確に決めて行くのが自由化の実体であろうと思う。


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