「決断と実行」と言えばどこかの政党の選挙スローガンに見たような気がする。
「決断」と言うと男らしくて勇気があって頼もしく感じるが、決断にも正しいものと正しくないものがある。いくら男らしく勇気を持って頼もしく決断しても、その内容が間違っていればどうしようもない。間違っているかどうかはその後の経過と結果を見れば一目瞭然である。よって、当然のことではあるが、「正しい決断」をしなければならない。正しい決断をするためには相当な事前検討が必要である。そして事前検討の段階で多数の小さな決断を経ている。最終的に決断する時にはほぼ結論が見えている状態であり、どちらかというと男らしさも勇気も頼もしさもそれほど関係ない。
準備の余裕がない時はリーダーに決断を強いられる。
少ない情報だけで瞬時に判断しなければならないし、誰も判断を助けてくれない。例えばスポーツの試合であろう。どちらかというと動物的勘で一か八かの勝負をしなければならない。しかし、政治の運営や会社経営もしくは組織運営においては、このような場面は少ないし、このような場面に遭遇する状況は努めて避けなければならない。政治や会社や組織を一か八かの賭に晒すわけにはいかない。よって、通常は時間と労力をかけて十分に事前検討されたものを最終的に決断することになり、決断は単なるセレモニーに過ぎない。反対に組織力で動いている場合、十分に検討されないまま部下がリーダーに最終的な決断を迫るのは避けるべきである。そんな部下の存在価値は無に等しい。
「決断」できないのはリーダーのせいだけではない。
決断できる環境を創出できない部下のせいでもある。決断さえすればいい訳ではないし、十分に検討されないままの決断は危険が大きい。このように考えると、リーダーに要求されるのは「決断力」ではなく「指導力」ではなかろうかと思う。確かに指導のひとつひとつは小さな決断の結果であるが、継続的に指導することに重きを置くべきではなかろうか。優柔不断で決断できないことを欠点と見る人が大半であろうが「決断しないことを決断する」のも「決断」である。時期が熟しておらずまだ検討すべきであり決断できないこともあるのである。何を検討すべきかを明確にし、それぞれの概略の方向を示すこと、それが指導力であり、指導力を発揮すればいずれ決断に至ることができる。
実行力とは何だろう。
何でも実行すれば実行力があるというのもおかしい。自分で当然やらなければならないことを実行するだけでは実行力がある部類には入れることができない。自分でやらなくても済むがあえて自分で実行することが実行力があると言われるのであろう。ただし、ここでも適正な実行力がある。実行した結果が正しかったかどうかは時間の経過と成果を見れば一目瞭然である。自分で実行したことによりいい結果がもたらされなければ実行力があるとは評価されない。自分でやらなくて済むことをあえてやって無駄に終わることもあるだろうし、他人の領分を侵して組織を乱すこともあるだろう。それでもあえて実行力を発揮し最終的にすばらしい成果を残すのは至難の業に近い。
実行力とは、自分の領分を一歩踏み出すことであろう。
踏み出すことにより新たな発見と問題意識が生まれ、新たな発想に基づいて発展的な仕事ができるのであろう。「自分でやらなくても済む仕事をあえて実行する」ことは新しいことを始めることでもある。今まではやらなくても済んだがこれから新しく始めるということである。その発見は数々の無駄な実行力から生まれたものであり、実行力そのものは試行錯誤を伴う挑戦である。何でもかんでも実行力を発揮するのも考え物で、特に役職が上になると何を実行するかを決心することが極めて重要になるし、ある程度の危険を冒して挑戦はするが、致命的な失敗は許されない。期待されているのは大成功である。
上に立つ人が実行力を示せば、下に立つ人もうかうかしてられない。
「自分でやらなくても済む仕事をあえて実行する」上司の下では部下も同じ考え方と行動をしなければならない。そうでなければ組織から浮いてしまうし存在意義が失われてしまう。もっと言うと、下の者は上の者の立場になって考えないととんちんかんな行動をとってしまうことになる。それぞれの司でそれぞれが大局的な物の見方と部下の仕事と現場の状況の把握に努めれば組織は大いに活性化することになる。全てを部下任せにすれば何も考える必要もないし、実行状況を確認することもなく結果を待つだけの人達であふれかえって組織は弱体化する。
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