オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

メディア報道の事前チェック

2018年08月14日 | Weblog
大手のメディアはすごいと思う。

 これほどの膨大な情報を毎日提供して、その内容を毎回事前チェックしているのである。チェックしないとあちこちから間違いの指摘や非難や中傷の嵐に晒されるのは目に見えている。無節操に情報を流すととんでもないことになる。単なる個人が発信しているのであれば影響力は少ないが、大手のメディアであれば、日本全国もしくは世界中から批判と叱咤時には怒りの感情がぶつけられて、最悪の場合は裁判沙汰になり莫大な損害賠償請求を被ることになる。

そんなことを考えると、我々に提供されている情報は全てがすでに操作されていることになる。

 一般大衆から攻撃されないような、どこからつつかれても文句を言われないような内容になっている。そして、メジャーな集団が納得できるような、時には大規模な組織や営利団体の反感を買わないような、もっと言えば、自分たちのスポンサーのご機嫌を損ねないような内容にしないと自らの足元をすくわれることになるのは必至である。もし攻撃され、文句を言われても、その事実の発信源を明確にして、自らの責任とされることを免れる道を用意している。主としてある程度権威のある組織から信頼性が高いと判断した情報を入手して報道しているのだろう。

一番やっていけないことは誤報であり剽窃である。

 情報そのものが事実であれば問題ないが、それが誤報であったり剽窃であったりではメディアそのものの信用を失墜するし、世の中に多大な影響と迷惑を生じさせてしまう。このチェックは相当大変であろうと思う。昨今は高度に発達した情報化社会であるために、さらに時には天文学的な膨大な情報の中から誤報であるか剽窃であるかを確認しなければならない。いったい誰がやっているのだろう。たぶんコンピュータとネットワークを最大限駆使して、なおかつ多くの関係者を巻き込んでチェックしているのであろう。この頃は音楽や文学や芸術そして学術論文、商品のデザインや商標、ロゴマークやコンピュータのプログラムさえ複製や改ざんが横行している。

事実そのものの確認は比較的簡単である。

 その事実に基づく考え方や意見・評論などの個人の意見が問題である。これを大手のメディアが取り上げて大々的に報道する時に、この個人の持つ情報が誤報や剽窃である可能性はゼロではない。この可能性を限りなくゼロに近づけなければならない。金の不純物を限りなくゼロに近づけるより難しい問題である。しかも、毎日の膨大な情報全てである。このメディアが発信するのは不特定多数に対してであり、この不特定多数の中に誤報や剽窃を証明できる人がただ一人でもいるかも知れない。時々は誤報や剽窃が判明して謝罪の報道があるが、その数の少なさには頭の下がる思いである。

そんな思いを抱きながらテレビを見ていると、

 随分と大胆なことをやってるなぁ、とも思う。特に生番組である。ライブで放送されていれば、その瞬間瞬間にいちいちチェックはできないだろう。本来であれば何が起こるか解らないはずである。にもかかわらず堂々と放送されている。しかし、これにも事前のしっかりとした台本が用意されているのだろう。出演者はこの台本に沿って演じていることになる。これもライブとはいえあらかじめ作られた番組であることになり、録画とそれほど変わらない。ライブだからより真実味が増すと思っているのは我々の幻想かも知れない。しかも、出演者には言ってはならないことがあらかじめ決められて個人の発言には制限がかかっている。大胆だと思わせて実は計算ずくの大胆さなのである。

素人相手のニュース映像は確かに大胆である。

 作られたライブ番組の出演者よりも大胆である。それは何も縛りがないからである。しかし、撮影された映像はこれまた誰かに放映するかどうかチェックされている。どこまで行ってもチェックが付きまとう。はっきり言ってチェック済みでないものは大手メディアの発信する情報に何もないかもしれない。我々はそのようなものを受信しているのである。そこの部分はよく考える必要がある。だからこそ、自分自身で判断する姿勢が必要なのだと思う。自分自身の感性を大事にしなければならないし、ある程度は疑って情報を受信しなければならない。頭から信じ込んでしまっては間違った方向に進み、真実に反する事実をつかまされることになる。

対策としては、

 多種多様な情報源を持つことである。その多種多様な情報を自ら分析し判断し現時点での結論を得て行動しなければならない。ひとつに固執しないで、反対意見も賛成意見も無関心も無視も別の領域の人達も時には破壊的で暴力的な意見を述べる人達も含めて情報源としなければならない。それで中立で偏向しない自分の意見が確立されると思う。過激な意見を初めから拒否してしまうと常に真ん中にしか収束しない。過激な意見のなかに新しい挑戦すべきことが含まれているし、消極的で無関心で無視している意見の中に冷静な判断要素が含まれている場合がある。メディアは善くても悪くても現時点での当り障りのない一般大衆の中に作り上げられた中間的な内容の報道しかしないのである。心すべきである。


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