街を歩いていると、あちこちで飲みながら食べながら歩いている人をたくさん見かける。
飲んだり食べたりするものは人の集まるところどこにでも売っており、金さえあれば手軽に手に入れることができる。ちょっと喉が渇いた、ちょっとお腹が空いた、と所構わず飲んだり食べたりである。これに自動販売機が拍車をかける。24時間コインを入れさえすれば好きなものが手にはいる。中には自動販売機を見ると反射的に喉の渇きを覚え衝動で買ってしまう中毒的な常習者もいる。私から見ると、果たしてほんとうに「今」必要なのかと思ってしまう。次の目的地まであと何分かかるのだろう。目的地に着いてからゆっくりと飲んだり食べたりすればいいし、それまでなぜ待てないんだろうと不思議に思ってしまう。また、出発するときになぜ、水分補給や腹ごしらえ等の準備ができなかったのだろうか。公園やリゾート地ならまだ許せるが、生活の場としての駅や道路や商店街である。もしどうしても飲んだり食べたりしたければちゃんとした休憩場所でお行儀良くやってもらいたいものである。
昔、私の中学、高校の頃は、「買い食い」と言う言葉があって悪いこととされていた。
登下校の途中で店に立ち寄って飲み物や食べ物を買って飲み食いすることである。私はできのいい優等生ではなかったので、時々「買い食い」をしていたが、それでも悪いことという認識はあって、後ろめたい思いをしながらやっていた。いまでもその思いが強く、この年になってもよっぽどのことがない限り「買い食い」はしない。食事と食事の間はほとんど間食はしないし、やるとしても「お茶」の時間か、水分補給くらいである。しかも缶飲料やペットボトルのいわゆる自動販売機の商品は緊急避難的にしか利用せず、ほとんどが、自分で入れたコーヒー、紅茶、日本茶である。夏場は多めに作って(インスタントやティーバッグではない)おいておくと半日くらいは冷めてもおいしくいただける。家族は麦茶やウーロン茶を冷蔵庫に入れてこれを愛飲しているようであり、私も時々飲ましてもらっている。娘たちは街で買うのがもったいないと家から小さめのペットボトルに移し替えたものを鞄に入れて外出している。100円のものが5円か10円くらいで済んでしまうし、コマーシャルではなく本当の自然に限りなく近い飲み物である。自然でないものを自然に近づける努力がいかに無駄で無意味かがわかる。
時々、電車の中で強烈な臭いが鼻につく。
清涼飲料水の臭いであり、スナック菓子の臭いである。人工の香味料か、甘味料か知らないが、とにかく人工的な臭いがする。それを平気でガブガブ、ムシャムシャと食っている若者がいる。私には只でもらっても、金を出されても飲んだり食べたりする気は起きない。本当に健康を害さないのか、あんなもので空腹を満たして三度の食事はきちんと食べられるのだろうかと他人事ながら心配になってくる。このような清涼飲料水やスナック菓子を食事の代わりにしているのであれば体をこわすのは目に見えている。ここはひとつ次の食事まで我慢して、しっかりとした栄養補給をした方が得策だと思う。体のための水分補給は欠かせないが、これもただの「水」で十分である。ミネラルウォーターである必要もなく「水道水」で十分である。なぜ清涼飲料水である必要があるのか不思議である。しかも、通常であれば1日500mlもあれば十分なはずであり、次から次にガブガブ飲む必要はなく、飲まなければならないような人は身体的に異常である。
私は、体調をリセットするために週に1回以上は10Kmくらいジョギングしている。
ジョギングが終わると、体重も体脂肪率も血圧も通常状態に復帰する。当然喉も渇くが、走った直後はクールダウンした後白湯(さゆ)を飲む。熱い白湯は冷たい飲み物より違和感がなく、飲むと喉も潤うし、体の中に沁み入るようで、不思議に体の火照りも治まってくる。暑い時に熱いものを取るのは抵抗があるが、体にとっては冷たいものより優しく、少なくとも常温以上のものにすべきだと思っている。ただし、味や冷涼感を楽しむ目的とは別であり、冷麦やそば、ワインや日本酒等は冷やした方がおいしいことに異論はない。10Km走って汗だくになっても補給する水分は200~300mlで十分である。マラソン選手でも給水点での水分補給はそんなもんであろう。そうであれば、日常生活をしているだけの人はそんなに水分は必要とせず、次の目的地まで我慢しても身体機能的には問題ないはずである。何のための移動途中でのダラダラとした水分補給なのだろう。
どうやら、現代の若者は我慢することを知らないらしい。
少しでも欲望が芽生えたら直ちにその欲望を満たさないと気がすまないようである。日常茶飯事の「買い食い」もその延長である。そして商業主義がそれに拍車をかけ、芽生えた欲望を直ちに満足させる環境を作り上げる。現代の若者は欲望を直ちに満足させることに抵抗を持たないし、反対に我慢することを知らない。我慢することは不快で良くないことだと思いこんでいる。しかし、人間にとって我慢することは重要なことであり、子供の頃から我慢することを教え込まなければならないのである。我慢とは、やりたいけれどもやってはいけないと規制されることであり、できるけれどもやってはいけないと禁止されることである。その歯止めがなくなれば、「やりたいからやる」「できるからやる」という人種が増大し社会生活は滅茶苦茶になってしまう。なぜやってはいけないかは社会が決めることであり、社会がしっかりしていないとそのルールが守られなくなってしまう。そのルールを支えるのは今生きている年長者であり、年長者が若輩の若者に教える努力をしなければならない。
人が見ていなければ、他人に迷惑をかけなければいいと言う考え方がある。
たとえば、どんな状況でも家の中を土足で歩くことに抵抗がある人と、「人が見ていなければ」「他人に迷惑をかけなければ」と何の抵抗もなく土足で歩ける人の違いは何だろう。外見的には自分の家を土足で歩こうと歩くまいと他人には関係ないし両者の結果に差はない。ましてや外国人であれば土足で家の中を歩くことが当然のような人もいる。しかし、外出の時忘れ物に気づいて靴を脱ぐのが面倒で土足で物取りに入った時後ろめたい泥棒になったようなイヤな感じになるのは何故だろう。それは、子供の時両親から土足で家の中を歩くことを禁じられていたからである。その禁を破ることに抵抗があるのである。子供の頃に禁じられ、やりたい衝動を我慢させられた経験があるから、この年になっても後ろめたさを感じるのである。この我慢させるしつけ教育がなければ何の後ろめたさも感じないのである。家の中を土足で歩くことの是非以前の問題であり、結果としてその是非を論じても何の意味もない。決められた約束事は守らなければならないのであり、その原則を淡々と遂行しているだけである。
この「我慢させるしつけ教育」は子供の時にしっかりとやるべきである。
知識教育でもなく理論教育でもない。中には理不尽なものもあるであろう。それでも我慢させることを体得させるのである。社会生活において我慢することの必要性を徹底して教え込むのである。我慢することにより他人の気持ちが理解でき、他人の幸せのために我慢する喜びを知ることができ、他人が実現しようとしているものを大切にする心が育つと思う。その心さえあれば公徳心なんて自然に育って行くと思う。公徳心とは法律でも規則でもない。その場その場で状況により変わるものである。その状況を判断する決め手は人間と人間の関係である。相手に応じて、相手の立場になって、相手の気持ちを察して行われる行動そのものの根源が公徳心だと思う。それを忘れて、ある人が考えた公徳心をひとつひとつ教え込むことが道徳教育だと勘違いしている人がいるが、そういう教育をすればするほど教えられたこと以外は何をやっても良いと言う大きな抜け穴を一生懸命作ることになってしまう。
我慢のできない人は不幸である。
誰しも、これ以上、これだけは我慢できないという限度はあるだろう。それはしっかりと主張すべきであり、その限度は通常であれば万人が認める基本的人権に近いものだろう。しかし何でもかんでも我慢できない又は我慢しない人は赤ん坊と同じで周囲の人に多大な迷惑をかけていることになる。我慢は周囲のみんなのために個人が自己規制するものである。その自己規制によって人権が侵害されるものではない。確かに我が儘勝手な自由は規制されるが、それをもって権利や自由の侵害だと主張することは、周囲の人の権利や自由を無視しているだけに過ぎない。一人の我が儘勝手な自由が許されないのは、全員が我が儘勝手な自由を主張した時の結果から類推すれば簡単に理解できることである。我慢ができる限度が高ければ高いほどその人の人格は高いと言える。学問でも芸術でも日頃の立ち居振る舞いや身だしなみにしても美しいもの全てが我慢の結果であり、我慢の結晶した美のように思える。
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