オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

文化と文明と科学技術

2007年11月17日 | Weblog

今年の文化の日は土曜日だった。

 「科学技術の文化的側面を重視しよう」という意見がある。科学技術は我々の生活や経済活動の基盤であり、文化の源となっており、科学技術の文化的側面を認識することが大切であると主張している。「文化」という言葉と「文明」という言葉がある。辞書を引くと、文化は「世の中が開け進むこと、精神の働きにより作りだしたもの」とある。文明は「人間の生産技術・意識が進み、高度な文化をもった状態」とある。さしずめ、文化は心を満たすもの、文明は空腹を満たす飯のタネであろうか。「人はパンのみに生きる者にあらず」という言葉もある。科学技術も文明を支えるひとつの要素であろう。

しかし、科学技術万能の考えはちょっと受け入れがたい。

 なぜかというと、科学技術に「心」がないからである。科学技術は、妙に人間を超越した冷たいところから発想されている。不可解な「心」を相手にし、「心」にとらわれていたのでは科学は遅々として進まない。「心」を捨てるところから科学ははじまっている。いや、「心」の分野がすっぽりと取り残されているといったほうが正しいかも知れない。前述の主張で文化的側面を重視しようという意味はそう理解する。

リンゴが落ちるのを見て文化としては何も感動はない。

 その文化を捨てて「なぜ落ちるのだろう」というところから科学がはじまる。書を読み、絵画を見、音楽を聴いて感動するが「なぜ感動するんだろう」といくら問うても答えはない。感動するから感動するのであり、多くの人が感動したものが文化として残されている。そこには法則や原理では言い表せない「心」がある。

科学技術は本質的には「道具」である。

 人間を便利にし、楽をさせてくれるが、「慾」を満たしこそすれ「心」は満たしてくれない。20世紀は科学の時代であっただろうが、21世紀はさしずめ「心」の時代であろうか。「20世紀は電気・電子の時代であったが、21世紀はドラッグの時代である。」という話がある。ドラッグすなわち「薬」である。これは心を満たすための「道具」である。現在は、覚醒剤、向精神剤等は、副作用が強く禁止され、所持しているだけで犯罪であるが、将来は副作用のない「薬」が発明されて一般人にも解禁され「心」を自由にコントロールできる世の中になるという話である。

好きな時に楽しい気分になったり、感動したり、熱中したり、恋をしたりである。

 世界のどこかでこの儲け話を商売にしようと虎視眈々と狙っている人達がいる。科学技術が「心」にまで及び、これが商売にされると聞くと恐怖感がヒタヒタと襲ってくる。悪魔に生きながら心臓を奪われるような気分である。

別に、「薬」の助けを借りなくても、

 自分に忠実に生き、自然と共生していれば「心」は満たされる。「心」は自然の中ではぐくまれる。そして、これまで人間が積み上げてきた文化を享受できる。自然を愛でる心、自然を大切にする心、自然を楽しむ心、自然の恩恵を感謝する心そして、先人の知恵を大切にする心が求められる。科学技術が源であり、基盤であるという考えには賛同できない。源であり、基盤であるのはやはり「文化」であり、人間の「心」である。

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