オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「癒し(ヒーリング:Healing)」とは何だろう?

2007年11月18日 | Weblog

あちこちで、「癒し」(ヒーリング:Healing)という言葉が使われ、

 密かにブームになっているようである。世の中不況で、業績は上がらず、資金繰りに恐々とし、リストラと失業におびえ、将来の展望もはっきりしない中で、ストレスもたまるだろうが、安易に「癒し」(この場合は医療でなく心の癒しを指している)に頼るのはどうかと思う。

「癒し」には、癒す人と癒される人がいる。

 癒される人は癒す人に全てを委ねて癒されることを切望する。また、癒す人をあたかも包容力のある母親か偉大な人格者かありがたい教祖や神様とでも思い込んでいるのであろうか。そう信じ込まないで癒す人に疑いをもっていたのでは永遠に癒されることは無理であろう。それよりも前に、癒される人は世の中に自分の最終的な目標とする平安で調和した神聖な理想郷がどこかにあると確信しなければ「癒し」を実現することはできないであろう。現実にはそのような包容力のある母親や偉大な人格者やありがたい教祖や神様はいないし、平安で調和した神聖な理想郷もない。

「癒し」は癒される人から癒す人に自分にはどうすることもできない「いやなもの」を押しつける行為である。

 癒す人は最終的には受け取った「いやなもの」を何とか自分の中で処分しなければならない。確かに、癒す人は癒される人よりある意味で器量が大きくなければならないようだ。しかし癒す人の器量も限度がある。ブラックホールみたいな訳にはいかない。いくらでも癒すことができる人は、本当は何も癒していないのである。癒される人が癒されたと錯覚しているだけである。

何かややこしい話になったが、

 本来「癒し」とは一時的なものである。継続的に「癒し」を求めるのは無理がある。人間同士がお互いに癒し癒されるのが本来の姿である。また、「癒し」を商売にしたとたん、その本来の目的は消えてしまうと思う。「癒し」の目的が金儲けであること自体が「心」を失っている。金儲けのためにやる「癒し」はもはや「癒し」ではない。身体的、気分的な一時的安楽を与える単なる「サービス」に過ぎない。気晴らしにこそなれ問題は何も解決しておらず、そこには人間同士の心の触れ合いも少ない。

「心」はそれを定義したとたんに消えてしまう。

 心は人により状況によりまた雰囲気によりいかようにも変化するものである。例えば、「良心」を「これが良心です」と定義したとたんそれは良心でなくなる。AとBがあって、「Aが良心である」とした場合、ある人にとってはBが良心かも知れない。要はその人が「こちらのほうが善であると思った心」であり、AでもBでも良いことになる。

その人が心から善と信じ実行したのでなく、

 金儲けのためと思ったとたんに見た目は同じでも「良心」は消え去ってしまう。いろいろな観点から何が良心かをみんなで熱心に議論するといつの間にか「良心」が消えてしまい、何が「良心」かわからなくなる。それは、それぞれの考える善があり、各人がそれぞれの良心を持っているからである。

人のために良かれと思ってやったことも、

 「やってあげた」と思ったとたんに見返りを期待した行為となる。ボランティアも「やってあげている」と思った瞬間に単なる自己満足の行為となる。人が困っているから助けているのであり、そこには打算や見返りの期待はない。「心」は自己の感性でありその感性に基づく行動の積み重ねである。

「なぜ山に登るのか、そこに山があるから」で充分である。

 自分が登りたいから登るのであり、登っているうちに楽しみもあり喜びもあり目標も計画もそれを実現する技術も生まれてくる。どこかの偉大な登山家を参考にこそすれ、その登山家を唯一の目標として全てを捧げて努力しているわけではない。自分は自分である。

「癒し」を売り物にする人達は、

 いかがわしい新興宗教のにおいがする。「宗教」の言葉を使わないだけに始末が悪い。まず、世の中に平安で調和した神聖な理想郷があることを確信させ、次に、自分達がその理想郷に近い位置にいることを信じさせ、癒しを求める人にその理想郷に近づく方法を伝授する。理想郷に近づくことが「癒し」に通じると信じる「癒される人」は簡単にその権威に服従してしまう。

例えば、アロマセラピーは、

 理想郷は日本ではない「西洋」に求めている。西洋で盛んに行われている伝統と権威ある療法であるとする。その方法は香料を使ったものであり、そのやり方には何やらむつかしい蘊蓄が述べられている。ただ「香り」を楽しむのであれば、昔から日本にも「香道」が存在している。しかし、商売をする側にとって「日本」では現実に近すぎて「理想郷」としてはだめなのである。ハーブ療法も音楽療法も温浴療法その他の癒し療法も発祥の地はどこかの外国であり、むつかしいカタカナ言葉が並び同じような論法で効能を宣伝している。

私は、世界の中心は自分であると思っている。

 また、世界中の各個人もそれぞれが世界の中心であり自分と同じように尊重すべきだと思っている。自分を大切にすることは他人を大切にすることでもある。自分を見つめ自分の考えを明らかにし自分に責任を持ち自分を大切にすることはそのまま他人を世界の中心として尊重する心に通じる。自分に自信が持てない人は自分が中心だと認識できず、また他人を世界の中心として尊重できない。

自分を周辺部に置いてしまい、

 どこか別のところに中心があると思ってしまう。そして、自分はその中心に動かされていると思っている。その人にとって、中心に近づくことが安泰に近づくことであり、そのためにその中心に近い位置にいる人達に「癒し」を求め、その権威に服従してしまう。反対にその中心から外れる他者に対し中心であることを認め尊重することができない。

自分は他者から癒されるとともに、他者を癒す人でもある。

 また、他人から癒される前に、自分で悩み苦しみ試行錯誤し自ら問題解決を目指す努力をしなければならない。自分自身に対しても癒す人である。「神は自ら助ける者を助ける」「叩けよさらば開かれん」の言葉通り、自ら問題解決する努力を怠らない人には自ずと道が開ける。自ら努力することを怠って安易に「癒し」に頼ってはいけない。自らの問題解決能力を持つ者は「癒し」は必要ないのである。


ある時期にある人にたまたま不幸が集中し、

 精神的に打ちひしがれて問題解決能力を失い立ち上がる気力さえ失っているときの「癒し」は有効である。しかし、それは立ち上がるまでの「癒し」であり、立ち上がった後はまた自ら歩きはじめなければならない。そして、その時役に立つのは、商売の「癒し」ではなく、家族であり、友人であり、同僚であり、上司であり、肉親であり、隣人である「人」の暖かい心からの無償の奉仕による「癒し」である。

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