6月26日サイゾーウーマン
7月13日女性自身
奇しくも時を同じくするように久邇通子さんを扱った記事が出た。
サイゾーウーマン
女性自身
どちらも久邇通子さんや関係者に直接取材した記事ではなく、
サイゾーウーマンのネタ元はネタ元は主に河原敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』
『女性自身』のネタ元は、主に42年前の『女性自身』の記事。
この方が久邇通子さん。
お綺麗でチャーミングですね。実際にお会いすればやんごとなきかたのオーラもあったでしょうから、おモテになったのもわかるような気がします。
御苦労の果てに辿り着かれた静かな日々の中、慕わしくなるような柔和な雰囲気も素敵です。
最近の眞子さま。間もなく30歳。こちらに向けた挑むようなお目の光が怖ーい。
通子さんと同じ46歳になられるころには、柔和なお目になられているでしょうか?
ネットでは『女性自身』の記事のほうが話題になっているが、『女性自身』は眞子さまと久邇通子さんが酷似している、とか通子さんの結婚は駆け落ち婚だとか、書きたい放題。
通子さんと眞子さまは似ていないし、通子さんの結婚は駆け落ち婚ではありません。
サイゾーウーマンの記事のほうが、通子さんの事情は丁寧に書いてありますが、元ネタが河原敏明の取材をまとめたものだからでしょうか。
河原敏明は皇室ジャーナリストの第一号だそうですが、昔の皇室ジャーナリストは今と違って丁寧な仕事をしていたようです。
眞子さまと酷似…62年前に“駆け落ち婚”した元皇族がいた!
2021年07月13日 06時00分 女性自身
周囲からどんなに反対されても、自らが選んだ相手との結婚を――。実は、62年も前に眞子さまと同様の選択をした“元女王”がいた。
似ているのは此処だけでしょう。
その名前は久邇通子さん(87)。香淳皇后の兄にあたる久邇宮朝融王の第三王女で、かつては久邇宮通子女王殿下と呼ばれていた。久邇宮家は戦前に11あった宮家の一つで、東京・渋谷の邸宅は2万坪超の敷地を誇った。
本誌「シリーズ人間」(’79年11月1日号)に登場した当時46歳の通子さん。お相手とのなれそめについて次のように語っている。
《わたくし、学習院短大を卒業したあと、大学の英文科の聴講生になって、週に2回、大学へかよったんです。その教室で知りあった彼と、交際がはじまって……》
サイゾーウーマンの記事によれば、彼、永岡義久 さんと交際が始まったことが表沙汰にならないように、大学通い一年で終わって、その後は月に2,3度会っているだけだった。
通子さまは1933年生まれ、旧宮家の皇籍離脱は1947年ですから、聴講生のころには平民です。
まず、眞子さまとは立場が違います。
<女性自身>
学習院大学に通っていたNさんではあったが、父親は平凡なサラリーマン。元皇族との境遇の差は大きかった。通子さんは、父や叔父、叔母にも取り合ってもらえず、結婚の許しが出ないまま月日が過ぎた。家族の中で唯一の味方はすぐ下の妹たった一人だったという。
猛反対を受けていた通子さんだが、転機となったのは父の危篤だった。病室に駆けつけると、婚姻届を渡された。やっと結婚の許しが出たのだ。Nさんと出会ってから約6年の月日がたっていた。
新居は東京・飯田橋の2部屋しかないアパート。ほとんど身一つ、家族からの援助も受けずに2人の新婚生活は始まった。
これのどこが駆け落ち婚なのでしょうか。
『女性自身』はサイゾーウーマンの記事に書かれているような6年間の動向を書かずに、この部分を書く。
通子さまは家を飛び出して永岡義久さんと同棲してわけではないし、親の許しを得ないままに婚姻届を出してもいないが、見出しを読んでこの部分を読めば
駆け落ちして二人で暮らしていたと錯覚しかねません。
交際を許されない間、通子さまが何をしていたかといえば、
サイゾーウーマン、後半の記事。
<サイゾーウーマン>
しかし、このまま家で鬱々としていても仕方ないと考えるのが、前向きな通子さんという女性でした。通子さんは「働く女性」となることを決意し、津田義塾で英文タイプを専門的に習いはじめます。後には首席という優秀な成績で卒業、大協石油(現・コスモ石油)に入社したのです。
いまだ親族から結婚は許されないものの、学習院大学で出会った永岡義久さんとのデートも続いていたそうです。しかし、二人がお付き合いをはじめて5年半もの月日が過ぎようとしていました。
結婚に反対したまま通子さんの父・朝融さんが肝硬変で倒れ、近親者の取り計らいで通子さんと永岡さんの結婚が決まりました。意識不明の父の枕元で婚姻届の用紙を二人で書いたそうです。新居は飯田橋の2部屋のアパートでした。
「生きて行くために必要な選択です。」(結婚できなければ死にます?)と宣言はしたものの、小室と一緒になって元婚約者対策を考える以外何もせず便々と日を送る眞子さまと違い、通子さんは約6年の間に自活のために地道に行動され、手に職をつけ就職もされています。
女性自身がそれを書かないのは、眞子さまとの御心構えと行動の違いが明らかになり、酷似だの駆け落ち婚だのと書けなくなるからでしょう。
<女性自身>
新居は東京・飯田橋の2部屋しかないアパート。ほとんど身一つ、家族からの援助も受けずに2人の新婚生活は始まった。父が通子さんと親交があったという旧華族の女性はこう述懐する。
「私の父が通子さんのことを話していたことを覚えています。結婚するときに通子さんは『家名を汚した、二度とこちらに戻ってくるな』『連絡もしない、手紙も書いてこないように』と言われたのだそうです。お金の無心をするなという意味だったのでしょう」
小室に加担して皇室特権を手放さず至れり尽くせりの新婚生活を計画している眞子さまとは全然違いますね。
しかしもし、今、眞子さまと小室が同様の生活をしても「見せかけだけだろう。影では秋篠宮から多額の援助があるに違いない。」と見られてしまいそうです。
<女性自身>
だが、結婚生活は長くは続かなかった。たった4年ほどで2人は別れることになってしまったのだ。通子さん自身は本誌に《憎みあって別れたのではないんです》と、多くを語ってはいない。
永岡さん《わたしはね、久邇家の親族すべてに反対されながら、それを押し切って嫁入りした彼女を、どうしても幸福にしなければ、と思ったんです》
Nさんは懸命に働き、1カ月で174時間の残業をしたこともあったという。2万坪の宮邸には及ばなくてもそれなりの邸宅を建ててあげたい――。Nさんはそんな“野心”を抱いて仕事に打ち込み、超猛烈社員になってしまったそうだ。
通子さんは物質的な豊かさを求めていなかった。《別れましょう。あなたは社会人としては優秀ですけど、夫としては失格です》と告げ、通子さんは家を出た。
結婚生活は4年ほどで終わり。
<サイゾーウーマン>
その後の通子さんは大井町のアパートに移り、自活を続けたそうです。いくら働く女性とはいえ、女性一人暮らしというものが経済的に厳しかった当時、立派だといえるでしょう。しかも、裕福な結婚相手に恵まれた兄弟姉妹に経済的に頼ることも絶対にありませんでした。
通子さまは潔い。
その後、通子さまは32歳で6歳年下の男性と結婚。
時系列的には21歳頃に永岡さんと出会い、26,7歳で結婚。4年ほどで離婚。離婚後1年ほどで再婚ということか。
<サイゾーウーマン>
通子さんはとある専門図書の輸入会社に転職するのですが、ここで6歳年下の酒井省吾さんという後輩男性に仕事を教えるうち、彼から慕われるようになります。
酒井さんは、まじめな学者タイプ。ドイツ語と英語が得意で、輸入業務に生かしていたそうですね。その後、酒井さんと通子さんは急接近していきます。ただ、本当の庶民・酒井さんとの結婚に反対という通子さんの兄弟姉妹は、かなりいたそうです。しかし、長兄である久邇邦昭さんが、彼は「なかなかしっかりした、好感のもてる男性です」と認め、結婚を許可してくれました。
学習院へ通っていた永岡さんは、庶民と言ってもハイソの部類。酒井さんは本当の庶民だったようです。
奇しくもほぼ同時に眞子さまと酒井通子さまをネタにした記事が出たが、両方とも直接に通子さまに取材した記事ではない。
「酷似」とか「駆け落ち婚」だのといわないだけ、サイゾーウーマンのほうがマシか。
<女性自身>
2人は東京郊外の団地で50年以上も一緒に暮らしている。本誌が訪ねると、通子さんは体調が優れないということだったが、夫のSさんが応対してくれた。夫婦仲は変わらないようだ。
現在の二人を訪ねたところは評価するが、コメントは一言も取れなかったようです。本当に会えたかどうか・・・。
周囲が反対する相手との恋愛を貫かれて結婚したといっても。二人の状況はまるで違う。
相手の男性の資質も違う。
小室は皇室特権と社会的地位目当てに眞子さまに執着しているが、通子さんの相手の男性はそういったもの抜きに通子さんが好きだったような気がします。
写真の通子さんは本当にチャーミングですから。
通子さまは自力で自分の生き方を通されたのですが、眞子さまと小室、佳代氏のMKKはひたすら皇室特権を当てにしている。
通子さんと眞子さまはまるで似ていない。と私は思います。