街中が寝静まった頃、郊外で一人、ウイは夜空を見上げていた。
つい何時間か前まで、あの場所にいた。
あの遥か高みから地上を見守る女神に果実を捧げ、
天使としての自分が次に成さなければならない使命を負った。
だから、やるべきことはわかっている。一刻も早く、始めなくてはいけない。
世界が、それを必要としている。
だが…
あの天空で負った重みと痛みが、現実にあったことの様には感じられないでいる。
考えようとしては、感情が霧散する。
体は地上に、心は天上に、そうして分かたれてしまって、一つに在ることが
できないからなのだろうか。
ならば自分は、一つで在るために、地上を切り離さすべきなのだろうか。
本来の、<守護天使>としての存在に則って。
…そんなことばかりを、考えている。
あの時。
地上に落ちた女神の果実を集め、天使界へと戻るために箱舟に乗ったウイは、
あの時に、<守護天使>としての自分を導いてくれていた師匠を失った。
失ったのだと、思う。
今までの旅は、彼の行方や動向が知れなくとも、必ず、自分は導かれているのだと確信していた。
初めて地に足をつけて、人間界を旅する中で遭遇した数々の試練。
そこで自分の取るべき行動は、彼に付き従って、学び、諭された全てを支えにして、
決断してきた。
それこそを、彼の導きだと信じていた。
だが、長い空白をおいて再会した彼の姿を見て、自分の考えは間違っていたのだと
思い知らされる。
彼は今、大いなる何物かと戦っている。
それこそ、弟子一人を導いている余裕などないほどに、決死の覚悟で戦っている。
ウイがずっと追いかけてきた翼は、天使界の全てを背負って、目の前から去った。
それは、ウイにとって、師との決別ではない。
弟子と言う立場に甘んじてぬくぬくと守られていた、自分との決別だった。
彼に導かれるという甘えを捨てる。
いつの時もその翼を追っていた彼に、追いつき、肩を並べる。
そうしなければならないほどの状況にあって、それでもウイの決断を迷わせるのは
地上の存在だった。
師である彼があれほどの覚悟で挑んでいる脅威に、地上を巻き込んで良いのか。
仲間として惜しみなく力を貸してくれた存在を巻き込んで、果たして、
自分は彼らを守ることができるだろうか?
自己の全力を、それ以上を求められる窮地にあって、他者を気にかけることが可能か否かは、
…明白だ。
師である彼が一人で成そうとしている事は、つまりそういう事ではないのか。
昼間、戻ったウイを地上の仲間はいつもと変わりなく受け入れてくれた。
この先の旅も、変わりなくウイに同行し力を貸すことに、なんの躊躇いもみせなかった。
このままウイが姿を消せば、それは彼らへの裏切りになるだろう。
それと解っていても、今、決断しなければならない。
別れるならば、この夜のうちに。
夜が明ければ、また「変わりなく」旅が続いていくと、解っている。
解っていることばかりだ。
正しいことを決断するというのに、こんなにも心の痛みを伴うのだから、
だからこそ、人の世界は、正しく清く、美しいばかりではないのだろう。
それも、解っていることですか、神様?
「ウイちゃん!!」
名を呼ばれて振り返れば、ミオが必死で駆け寄ってきている所だった。
その勢いのままに抱きつかれて、両腕を取られて、決して離しはしない、と
ミオが涙をこぼしている。
そのミオの様子にも心を乱すまいと自分に言い聞かせ、ウイは視線を転じる。
ヒロと、ミカが傍まで来ていた。
星空の下、誰もが決定的な口火を切るのを恐れているように、沈黙が続く。
仕方なく、ウイが口を開いた。
「ごめんね、皆を起こしちゃった?」
ミオがぎゅっと手を握ってくるのに、そっと、握り返す。
普段なら饒舌なヒロが黙っている。代わりにミカが口を開いた。
「そいつが、心配して起こしにきたんだよ」
そうか、とウイはミオの手をもう一度、強く握った。
戻ったときに、皆には事情を話した。
今までのように、ただ前をみて進んでいけばいいだけの旅ではない。
何より、自分は道しるべを失ったのだ。
その迷いを、彼らには見通されていたということか。
「一人で…っ、一人で行ってしまわないでくださいっ」
以前、ウイの光と翼になる、といってくれた少女が、精一杯の心で引きとめようとする。
これを振り切ってしまうことが、ウイには、できない。
なぜなら。
「行かないよ」
はっきりと、言葉にしてしまえば後戻りはできない。
それでも自身への誓いのために、何よりも仲間への信頼のために、ウイは宣言する。
「行かない。皆を置いて、一人でなんて、行かないよ」
ミオが顔をあげる。ヒロとミカも、ずっとウイの言葉を待っている。
だから、出来るだけ彼らに届くように、思いを込める。
「今、一人で行ってしまったら、何のためにウイは、7つの果実を集めたのか判らなくなる」
地上に落ちた、女神の果実。
それは、地上で、<人間が一人で成すことの愚かさ>を具現化させた。
一人で在ることの脆さや危うさは、孤独という弱さに耽り、手に負えないほどの悲しみを生む。
ウイはそれを目の当たりにしてきたのだ。
弱く力のない人間たちが、それでも強くあろうとすることを、教えられてきたのだ。
それを識ってなお一人で成そうという考えこそが、甘いのではないか、と思える。
だから。
「…だから、ちょっと覚悟を決めていただけなんだよ」
言った。
言ってしまった。もう後には戻れない。
何が正しいかもわからない状況で、今度は彼らを導いていかなければならない。
その重みに、顔を上げることが出来ない。
このときのウイの決断を、後々に断罪するのは、神か?それとも、師か?
だが。
少なくとも、今は、辛らつな仲間の言葉が、ウイを一刀両断にする。
「お前は覚悟の決め方が違うんだよ」
そうミカの呆れた声音に、ウイは思わず顔をあげていた。
「え?違う?」
「違うだろ。とんだ見当違いだ」
「ええー、っと…」
ウイの覚悟と、ミカのいう覚悟の違いは、どこに差が有るのかがわからなくて、ただ困惑する。
ミオも、ヒロも同じ思いなのか、ただ黙って成り行きを見守っている。
そこに、迷うことなく切り込んでくるミカの主張。
「どうせお前は、この先の危険に俺たちを巻き込むことに対して覚悟してるんだろうが」
「…う、うん」
「それは、俺たちがする覚悟であって、お前がすることじゃねえよ」
この先の旅に同行する、と決めた時点で、俺たちの方にその覚悟は出来ている、と
ミカが堂々と言い放つ。
ミオと、ヒロも無言でそれを肯定していた。
「え、と…、じゃあウイは何を覚悟したら…」
「師匠に喧嘩売りに行く覚悟だろ」
そういわれては目が点になる。
一応、今の状況では、ウイの師匠が敵側についた形ではあるが、
自分はそれを認めていない、何らかの事情があるのだろうということは説明したはずなのだが。
「どうして、お師匠様と喧嘩をしなくちゃいけないの」
「お前の見解では、師匠は一人で何かと闘ってるんだろ」
「…うん、多分、ね」
「それをお前は、一人じゃ勝てねえよバーカ、って言いに行くんだろ」
「えッ?!」
何をどうすればそうなるのか、とたじろいでいると、ミカの隣でおとなしくしていたヒロが
「ああ、そういうことだなあ」
なんて、しみじみ同意していたりする。
「なあ、そうだよな?」
「うん、まあそうなる」
ちょっと待て。
「なんで、どうしてそうなるの」
「だってウイ、人は一人でいちゃいけない、って思ったから俺たちを連れて行くんだろう?」
普段、言葉足らずのミカやミオの補足役をやっているヒロには、たやすいことなのだろう。
ゆっくりと、柔らかな物言いは、ウイの心を導くようにまっすぐ届く。
「ウイのお師匠様は誰も傷つかないように、自分一人でなんとかしようと闘ってる」
多分それは、と続くヒロの言葉は温かい。
師匠は「楽に勝てる戦いではない」と踏んだからこそ、ウイにも知らせず、一人で行ってしまった。
何よりも、弟子を傷つけないために。
「俺には、そう思える」
「…うん」
「でも、それは楽に勝てる場合に有効な手であって、楽勝じゃないなら結局、ウイは傷つくんだよ」
矛盾してる、とヒロが指摘して初めて、ウイは自分の中にあった不安を知る。
そして、俺たちにも同じだよ、と続けられて。
「ウイが俺たちを守る力がないから、って一人で行ってしまって、それでウイが負けたら」
「…結局、ヒロたちが巻き込まれるんだね」
そう、とうなずいたヒロが、「だったら最初から一緒の方がいいだろ」と、いつもの笑顔を見せる。
一人でないなら、必ず、誰かが傷つく。
誰かを傷つけることを恐れて、人の輪の中に入れないミオは、そこから手を伸ばした。
誰かに傷つけられることを恐れて、人の和に隠れていたヒロは、そこから踏み出した。
そうして誰かを傷つけ、傷つけられること以外の、つながりが話であることを、ミカが理解した。
果実がもたらした旅は、確実に彼らを救い上げた。
孤独は悲しみじゃない。
人の心を育て上げるための土壌だ。
果実は、そこに種を撒いた。
人と繋がる勇気、その種を。
それが、今、ウイには花開いているように思える。
きっと、そのうちに彼らは自分自身でも気づき始める。
その花を誇り、次なる種を産み落とす。誰かの孤独な土壌へ、新たな花を咲かせるために。
そうして、繋がっていく。
天使達が守る世界は、美しくも、正しくもない、まだまだ未熟な大地なのだろう。
ウイは、それを守る。
この世界の、未来を守る。
そのために。
「わかった。お師匠様は、間違っているよ、って言いに行くよ」
初めて、師匠に逆らう。
そのための、覚悟だ。それだけでいい。
あとの覚悟は、俺たちに委ねればいい。そう言ってくれた仲間を、師匠に誇ろう。
お師匠様。
ウイは、人である彼らにこんなにも成長させてもらったでしょう?
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