世界が救われた、と言って、いったいどれだけの人がそれを信じられるだろう。
人の知りえないはるか高みで、滅びと、存続の危機とがこの世界を覆っていたのだ、と言って
誰が、それを我が事のことのように受け止められるだろう。
世界は、そんな風にできている
天使としてこの世界のために生まれ、天使としてこの世界のために消える運命、
それを自らの存在の理由として戦いに挑んだ一つの魂は、望む世界と引き換えに
追いかけた師も、翼をもつ仲間も、生来の場所さえも失って、この地に落ちた。
神の喪失さえも受け入れて、世界はまだ、在り続ける
■ ■ ■
あの日から、ウイはまだ起き上がれない。
時々目を覚ますけれど、何にも反応せず、すぐに深い眠りに落ちてしまう。
だから、こうしてそばで見守っていることしかできない。
そうしてウイのそばについていたヒロは、様子を見に来たミカと交代して、
宿の部屋を出た。
ウイのことも心配だが、それ以上に、思いつめているようなミオのことも心配だ。
心配のしすぎでミオの方も倒れてしまうんじゃないか、と、ここ数日気をつけていたが。
前方にいるミオの横顔を見て、足を止めた。
バルコニーのてすりにすがりつくように身をあずけて、何かを考え込んでいるようだ。
声をかけていいものかどうかためらったものの、ヒロの近づく気配を感じて、
ミオが振り向いた。
「あ、ヒロくん」
傍へ行くと、ウイちゃんは目を覚ましましたか?とたずねてくる。
それに首をふれば、そうですか、とうつむいて、すぐにまた顔を上げた。
「ヒロくんに、お願いしたいことがあるんです」
その様子は、不安そうだったここ最近のミオとはまた違っていて、
何かしらの覚悟を決めたようにも見える。だから。
「うん、何?」
ヒロは、慎重に先を促す。
「ガナン帝国のお城に、付いてきて欲しいんです」
それは、確実にヒロの意表をついた。
ガナン帝国は、今回の事件の発端となった、悪意の巣窟のような場所だ。
「え?何で?ガナン帝国に行きたいの?今?」
「はい、どうしても、行きたいんです」
でもまだ敵の残党がいたら一人で突っ切る自信がなくて、と弱気に続ける。
「行って帰るだけなら、ヒロくんがいてくれれば出来るかな、って思って」
「…うん、そりゃ、まあ二人なら行けないこともないだろうけど」
ガナン帝国城を覆っていた闇の核心部分は消滅した。
あとは時の流れとともにこの地の昇華を待つだけの地だ。
その様子を確認したいのかと問えば、ミオは首を振った。
「本棚にいた大賢者様に、会いに行きたいんです」
そういわれて、ヒロも、本棚に潜むように存在してた賢者のことを思い出した。
怪しげというか、胡散臭げというか、…と、ヒロはあまり気にも留めていなかったのだが
ミオは違ったらしい。かなり真剣に告白された。
「私、大賢者様みたいになりたいんです」
それもまた驚きだ。
「ええー?あれ?ミオちゃん、あれ信じてるの?!」
「はい、だって、あの状態で何百年も生きてこられたんでしょう?」
「う、うーん…、まあ…、そう、らしいけど」
本棚の中で眠ってるあの状態を、<生きてる>というかどうかは、悩むところだが。
「私、ウイちゃんを助けたい」
はっきりとそう言い切ったミオの覚悟に、ヒロは息を呑む。
「だってウイちゃんは、この先ずっとずっと、お師匠様を探すんでしょう?」
それは、絶望と憎悪の魔宮で、ヒロが放った言葉のせいだった。
自分の師匠を目の前で失い、その彼を救う最後の望みをかけて魔宮へ挑んだウイは
もう、どうあっても師匠を取り戻すことはできないことを知って
その場へ、残ると言った。
ここで自分も使命を終えると言って、動かなかった。
それを許さなかったのが、ヒロだ。
『エルギオスはイザヤールに、許せと伝えてくれ、って言ったんだぞ?!』
その言葉だけが、ウイを動かしたのだと思えば、身がすくむ思いがする。
なぜなら、ウイと、そのウイを慕うミオの運命までをも、自分が決してしまった。
『エルギオスが言った以上、ウイの師匠はいるんだ、絶対、あの世界のどこかに!』
『ラテーナさんだって何百年かけてエルギオスを探し出したのに』
『ウイはその可能性を捨てて、ここであきらめていいのか?!』
ウイを失いたくないと思った、ヒロのその一心で。
「ウイちゃんはラテーナさんみたいに魂だけになってもずっと探すんでしょう?」
ミオが、決断してしまう。
「それなのに、私達が傍にいてあげられないなんて、悲しすぎます」
この広い世界で時が流れて。
ヒロや、ミオやミカと死に別れて、取り残されて。
イザヤールという天使の存在を誰一人知らない世界で、ウイの魂は、彼を探し続ける。
たった一人で。
「そのときに、一緒にいてあげたいんです。本の中ででもいいから、傍にいたいんです」
ラテーナのように気が遠くなるような時間をかけてこの世界にとどまる魂に、
どうにかして寄り添う方法を、ミオは、必死で考えていたのだろう。
そのために、あの大賢者に教えを請うために、ガナン帝国へ向かうという。
止められない、と思った。
ウイを地上につれて戻ることだけを考えていたヒロには、それを止められない。
自分の甘さを、思い知らされる。
そして同時に、残酷なことをしてしまったのだ、という気がした。
「…いいよ、俺でよかったら、どこでもついていってあげるよ」
「本当ですか?」
「うん、でも、まずミカに相談しないと。二人で出て行ったら、ウイのことが」
「あ、はい、そう、…そうですね」
まだ、ウイは目覚めない。
ここまで、自分たちを導いてきた天使はいない。
決めるのは、自分の心ひとつ。
■ ■ ■
「はあ?」
と、事の次第を説明されて、ミカが思い切り、<不可解>という表情をした。
ウイはまだ変わらず眠り込んでいるようなので、部屋の前で3人、立ち話をしている。
「お前が、何しに行くんだって?」
「け、賢者になれる方法を聞きにいきます」
「お前は?」
「護衛」
一度聞いた話を理解できていないはずはないのに、わざわざ確認する。
ミカがこういう態度に出るとき、それは必ず、何らかの攻撃態勢に入っている時だ。
「で?それが今でないと行けない理由でもあるのか?」
と、淡々と問い詰めてくる態度に、思わずヒロはたじろいでしまっている。
「え?えーと」
それを言われると、確かに、明確な理由がないな、ということに気づいたので、
「…ミオちゃんが行きたいって言う、から?」
と、安易にミオに振ってしまった。
それを判っていて、ヒロをとがめるでもなく、ミカの攻撃目標はミオに移る。
「お前は?俺を納得させられるだけの理由があるんだろうな?」
「…あっ、あの、それは、ウイちゃんが」
眠っているので、と続ける声が、ミカの一瞥の前に消え入りそうになる。
が、真っ赤になったミオが両足を踏ん張って声を張り上げた。
「一人じゃないですよって言ってあげたら起きるかもって思いましたッ!」
その慣れない大声に本人が一番驚いたのか、ヒロとミカの反応を見て
しおれるようにうつむいて、すみません、とこれまた消え入りそうにつぶやく。
それを見て、ヒロと同様に驚いていたミカだったが、じゃあ言ってこいよ、と
背後の扉を指し示す。
「え?」
「言って起きるんなら、お前のその覚悟だけで十分、起きるだろ」
「だって、それは…」
と、ミカのそのそっけない反応に泣き出しそうになるミオを見て、ヒロがあわてて庇う。
「ミオちゃんは、言うだけじゃなくて、ちゃんとウイの前で証明したいんだよ」
賢者になって。
その力を持って、決して一人にはしないのだと、永久の誓いを形にしたいのだ。
その誓いの形で、ウイを安心してこちらの世界へと呼び戻したいのだと、判った。
多分、ミカにも伝わった。
だからこそ。
「そんな証明なんか、必要ないだろう」
と、呆れたように、小さく息を吐き出す。
「あいつが一番、それを判ってるんだから」
そういったミカの声は低く、不安に揺れていた心に染み入るように、こぼれた。
なぜか、その言葉で、その場の不安定な空気が落ち着きを取り戻したようだった。
ウイは、判っている。
何もかも。
それを信じて疑わない強さが、ミカの口調を普段どおりに引き戻す。
「大体、そんなことと、あいつが寝てることと、何の関係もないだろーがよ」
そう言って、「お前らは」、と出来の悪い子供を叱りつけるように。
「感傷的になってるだけだ」
と、上から目線で決め付ける。
「ええ?ミカは感傷的になってないとでも?」
ここ数日、様子がおかしかったのはミカだって同じだ、という意味を込めて
ヒロがやり返すと。
「なってたけど、今のお前ら見てたらアホらしくなってやめた」
などと言っては、心底呆れ果てた、というような、これ見よがしのため息ひとつ。
「自分が軽はずみに言ったせいで、あいつが師匠を探し続けないといけないとか」
と、ヒロを軽くにらみ付けて
「自分が死んでしまうから、あいつを一人にするなんてかわいそうだとか」
と、ミオを射すくめておいて
「アホか、お前ら!」
と、これ以上はないほど、<傷口に塩をすりこむ行為>を繰り出すミカが。
「勝手に自分を犠牲にして話進めてんじゃねえよ」
あいつがそう言ったんならともかくッ、そう言い切って、苛苛と両腕を組む。
「けどさ」
それは、感傷的に聞こえるかもしれなくてもある意味事実で、と続けようとするヒロを
ミカがさえぎる。
少し、口調を緩めて。
「あいつが、あの魔宮から戻ってきたのは」
不安にすがりつく二人を、諭すように、ゆっくりと。
「自分が、一人じゃないことを、思い出したからだ」
その言葉に、ヒロも、そしてミオも、胸を突かれる思いがした。
「師匠を探すのは口実だってことくらい、俺にだってわかる」
エルギオスの言葉を伝えるために、魔宮を出たのではなく。
「それを口実にしないといけないくらい、自分が必要とされてることを」
思い出した。
ヒロの、言葉で。
一人じゃない。自分がここで消えれば、悲しむ人たちがいる。
何よりも、仲間にそれをさせてしまう。
自分ひとりの悲しみを、抱えきれない悲しみを、一緒に抱いている仲間がいる。
だから。
「お前が言わなかったら」
と、ミカがまっすぐヒロを見、俺が言っていた、と告げて、ミオを見る。
「ヒロも俺も言わなかったら、お前が言ってたんだろう、ミオ」
その言葉に、涙を落としたミオが、はい、と小さく頷いた。
「師匠じゃない。俺たちがあいつを必要としてるから、戻ってきたんだ」
俺はそう思っている、と、もう一度視線をくれたミカに、ヒロもしっかりと頷いた。
「うん」
だから、勝手に先走って話しをややこしくするなよ、と、呆れ顔で。
「大体、自分が寝てる間に、そんな大事な計画が進んでたと知ったら、あいつは」
「…拗ねるな」
「そう、ですね、…怒られちゃいますね」
ずーるーいー!!と、両手を振り回して抗議するウイの姿が思い浮かんで、
3人で、ちょっと笑った。
もう、どんな姿も想像できるくらい、ずっと一緒に旅をしてきたのだ。
自分たちがウイを必要としているように、きっとウイも必要としてくれるのだろう。
それを。
ウイの言葉で、正しく聞くのだ。
それが大事なのだと気づかされる。
どんなことだって、応えてみせる。
それが、ウイを必要とした自分達の思いだから。
「あ、窓が」
ウイの寝ているはずの部屋から、窓が開く音がした。
それを三人同時に聞きつけて、そちらを見る。
「ウイちゃん」
「起きたかな」
ヒロの言葉に後押しされるように、ミオが動いた。
扉の取っ手に手をかけ、中に入ろうとして、動かない二人を振り返る。
「あの?」
行かないんですか?と問いたげな様子に、ヒロが笑った。
「言っておいでよ」
先ほど、ミカが言ったセリフを、今度は本当の意味で告げる。
ミカも同じ思いなのだろう、その場を動かずに頷いてみせた。
「ミオちゃんが今ウイに一番言いたいこと、言ってきたらいいよ」
その言葉を自分の中で反芻するかのように、しばらく動かなかったミオが、
明るい笑顔を見せた。
「はいっ」
涙をぬぐったけれど、もう手を差し伸べていたわらなくても大丈夫だ。
天使が目を覚ました。
ミオが扉の向こうへ姿を消したあとも、二人、その場でただ待っていた。
もう一度、あの扉が開けば。
きっと、思ったとおりの展開が待ち受けているのだから。
↓ここをぽちっとすると、「読んでやったぜ!」的な会心の一撃です♪