この国では、領主階級の現当主は家の名で呼ばれる。
当主である間は個人の名で呼ばれることはない、というそれは、公務に仕えている公人としての在り様だ。
どの当主も家の名を継いだ時から個人としての存在は決して公にしてはならない。
それでも、諸侯各家の治める領地の民は「我が主」に対しての特別な尊敬の念があり、非公認に彼ら特融の称呼がある。
ここレネーゼ家でも、それは同じだ。
最近では、屋敷に仕える者たちには親しみを込めて「お館様」と呼ばれ、自領地の民には「老侯爵様」と敬われている。
そう、ここ最近のことだ。どちらも、正統な後継者となる次の当主を認める意向がそうさせるのだ。
ただしこれは、純粋な歓迎ではない。歓迎のその陰に押し込められているのは、次こそはという切望だ。
(我が領地の民は、一度、正統後継者を失っている)
そうして失わせたのは自分だ、と老侯爵は馬車の窓から見える風景に、思いをはせる。
領民たちに正しく、次なる領主を約束すること。
個人の名を呼ばれることもなくなって数十年目の季節がやってくる。
馬車は、妻の暮らす別宅へと向かっていた。
公務の合間をぬって、季節ごとに訪れる地だった。
いつもなら、遠く離れて暮らす妻の元での滞在期間はお互いに言葉も少なく、ただ心を寄せ合うようにしてひっそりと過ぎる。
だが、今度の滞在は違う。
孫であるミカヅキが、初めて友人を紹介したいと申し入れをし、屋敷へ連れてきたことを話してやらねばならない。
あまり感情を表に出さない妻ではあるが、離れた地から届く手紙には、孫の成長を気遣う一文が必ず添えられているものだ。
それが妻にとってどのような意味合いで書いたものであるにしろ、友人を伴い屋敷に滞在させたミカヅキの変りようは、自分にとって非常に喜ばしいものであったという事実。きっと彼女の琴線にも触れることだろう。
個人の名を捨て、公人としての生き方を共にしてきた唯一の伴侶だ。
そう考え、ふと、数日前に口にした言葉を思い出す。
「儂は、芸術品を創ってしまったのかも知れぬ」
それは、レネーゼ候として生きてきた長い時間の中でも、ただの一度も自覚したことのない心根だった。
陽が上りきる前の穏やかな時間。ミカヅキが友人らと過ごす庭に目をやりながら、彼が初めて見せる子供らしい姿には感慨が漲る。
その様子を共に見やる少女に漏らした言葉。
なぜ、自分はそれを口にしてしまったのか。
孫ほども世代の離れた、年端も行かぬ少女にそれを聞かせてしまったのか。
今考えても分からない。
分からないが、それを口にして初めて、自分は孫をそんな風に見ていたのだ、と思い知る。
人間である彼を芸術品に例える感性はまさしく己のもの。公人としての名で偽っておきながら個としてある心根は非常に卑しい。
それに思い至り、言葉を失っている自分の隣で、やはり同じように彼の姿を目で追っていた少女はこちらを見ることもなく言った。
「お爺ちゃんは、それを後悔しているの?」
老侯爵と呼ばれる自分に気後れすることもなく、孫よりもよほど親身に会話をするのは、友人らの中でもただ一人、ウイという少女。
孫を取り巻く友人らの輪から外れて、ウイはよく自分に懐いた。他愛もない会話をする中でいつしか別懇となり、自分は気を許してしまったのかもしれない。
「後悔か、…そうだな、あんな姿を見てしまってはな」
と、胸の内にある卑しさを押し隠すように自嘲気味に吐き出せば、ウイが「そっかあ」と頬杖をついたまま答えた。二人の視線は、陽に輝くミカヅキの髪の光に向けられている。
正統後継者として教育され、それを全て吸収してきた子だ。
正しくあるべき道を僅かも逸れることがないよう、ただ己に課せられたものだけを見て成長してきた子だ。
それはレネーゼ家の思想であり、最も美しく家の体現を成した姿であるように思う。その美しさに、間違いはない。完璧な美として存在するように創られた正統後継者、そこに人らしいものは必要なかった。まさに、美術品だ。
自分は、ミカヅキの人としての中身を全て美術品の中に押し込め、完璧であるように作り上げたのではないか。
苦いものがこみ上げる。
彼が友人たちと話している姿は、上品でも優雅でもない。だが、そこには感情があった。自分の意志で会話をし、怒鳴ったり呆れたり、笑い声をあげたりする。
あの子も、そんな風に自分を持っていたのだと気づかされる。今更ながらそんな事に気づかされる自分の愚かしさが、苦くてたまらない。同時に、この先どうしてやるのが良いだろうか、と途方に暮れもするのだ。
それを。
「お爺ちゃんが後悔しちゃったら、ミカちゃんはきっと困ってしまうと思うよ」
と、ウイがこちらを向いた。
「なに?」
「だって、ミカちゃんはお爺ちゃんに喜んでもらいたくて完璧にならなくちゃ、って頑張ってきたんだもの」
そう言われて、言葉を飲み込む。
ウイは、こちらの苦さを振り払うかのような、眩い笑顔を見せた。
「ミカちゃんねえ、お爺ちゃんのこと大好きなんだよ」
その単純な言葉は、この場に似つかわしくない。
レネーゼ家という囲いの中にある、爵位という重みと歴史という厳しさが複雑に個を縛るこの庭において、粗末な玩具のようにそぐわない。
それなのに、自分はそれを軽んじることができなかった。
「ミカヅキが?…そう言ったかね?」
「言わなくても分かるよ、ミカちゃんは家とかどうでも良いの。どうでも良いけど、そこにお爺ちゃんがいるからどうでも良くないんだよ」
ウイたちを連れてくるときにねえ、とウイが再び庭の方へ目をやる。
「お爺ちゃんだけに紹介する、って言うの。お爺ちゃんならウイたちを受け入れてくれる、って言うんだよ。それってね、お爺ちゃんは絶対味方になってくれる、って信じてるんだよ。絶対の信頼だよ。家を飛び出しちゃうくらい嫌いでも、お爺ちゃんの元だけは飛び出せないんだよ」
それが、ミカヅキが帰ってきた理由か。
一方的に休職届一枚で飛び出し、世界という自由に放たれておきながら、家からは逃れられないと気づき絶望の果てに、戻ったわけではないのか。
ミカヅキは、自分をこんな風に育てた祖父に、まだ絶対の信頼を寄せているというか。
にわかには信じがたいウイの話に、どう反応すればいいか分からないでいると。
「あとねえ」と、可笑しそうに笑って見せた。
「ミカちゃんは正しいことが好きだよね」
「…正しいこと?」
「ミカちゃんは数学すごく好きでしょ。絶対正しい答えが出るから好きなんだって。音楽もそう、正しい音じゃないと許せないでしょ。酒場にいる時だって、お上品なふるまいは正しくない、って指摘されたら、お下品なふるまいを覚えなくちゃ、ってなってるでしょ」
剣の扱い方も、戦いの布陣も、「正しい」事がすべてだ。それこそが、ミカヅキは安心するのだ
それって教育されたから、っていうよりは生まれつき持ってるものなんだと思うよ、と言って。
「だから、お爺ちゃんを好きでいられるのは、お爺ちゃんが正しいって思ってるんだよ」
侯爵家の当主として、あるべき姿。それを、祖父の姿としてとらえ、自分もそれに倣う。家でもなく、教師でもなく、祖父ただ一人がミカヅキの求める正しさ。
「正しいって思ってるのに、お爺ちゃんがそれを間違ってた、って言っちゃったら、ミカちゃんは何を信じていいか分からなくなっちゃうよ」
「しかし」
「後悔先に立たず、って言います。いいですか」
「あ、ああ、…うむ」
孫ほどの少女に、一方的に説教をされる羽目になっているが、おそらく周囲には分からないだろう。
二人で睦まじく、会話を弾ませているようにみえるだろうか。
「それってなんでかな、って考えたんだけど」
「ふむ」
「自分が成長したからだよね」
こんな言葉を、少女が投げかけてくるとは想像だにしない。
「あの時こうすれば、ああすれば、って色々な手を講じられるのは、それだけ経験も知識も手に入れたからこそ思えるんだと思うの」
あの時の自分より、今の自分がはるか高みにいて、そこから手を伸ばしたがっている。
暗闇で惑い、何かに縋りたくて手を彷徨わせている過去の自分に。
でも、それに手を伸ばして良いのはお爺ちゃんじゃないんだよ、と少女が言う。
「ミカちゃんだよ」
その言葉に、光を見た。
自分で自分を救い上げることはできない。そこに見える自分は過去の幻影でしかない。この手には掴めない。だが、現実に今存在しているミカヅキにはこの手が届き、届いた彼は、もうただの美術品などではないのだ。そう語る少女から目が離せないでいる。
視線を逸らすことなく、「お爺ちゃんがミカちゃんを美術品だ、っていうの、ウイは不愉快にはならないよ」とウイが言う。
「だって、お屋敷にいるミカちゃんはとても綺麗だって、思うもの」
ミカヅキが仲間から正統後継者としての姿を認められている。そして。
「不愉快だな、って思うとしたら、お爺ちゃんが今のミカちゃんを否定することだけ」
お爺ちゃんはそうじゃなくて良かったよ、と、彼の祖父である姿勢をも認めて。
「人が美術品と違うのは、完成することがない、ってことじゃないかな?」
放たれた言葉は、わずか十数年を経た少女のものではなかった。人の在り方を長年見守ってきた者が持つ達観。
広く大きな見通しを持ち得るウイの言葉は淀みない。
「どうしても一人が人一人を育て上げるには限界があるんだよ」
多くの手が、一人を育てる。それは幾人もの育ての理想が複雑に絡み合い、育手の誰もがその一人に他人の影を見、自分の理想を貫き通せないことに絶望する。
生きている間、それは続いていく。多くの人間と関わり合い、絆を紡いで、ほどいて、それを繰り返すが為に、人は完成しないまま生涯を終えるのだ。
不完全であることを否定しない。
それは神の意志か。
「お爺ちゃんがミカちゃんを美術品のまま完成形にしてたら、ウイたちはミカちゃんに会えなかったよ」
だから正しい、とウイは言った。
美術品である彼を手放した。自由に放たれた彼は仲間を得て彼らの手で新たに育てあげられ、この手に戻ってきた。
「お爺ちゃんがそれを否定しなかったから、ミカちゃんは美術品である部分もそうでない部分も、どっちも正しいって認められて、ようやく安心するんだよ」
その言葉が聞こえたようなタイミングで、向こうのミカヅキがこちらを振り向く。それにウイが手を振り返し。
他愛ない言い合いをして、もおミカちゃんはしょーがないなー、なんて呟いてミカヅキの元へ駆けていく少女。
その後ろ姿に、母親と会見したミカヅキの言葉が思い起こされる。
あれは神の御使い。そう言っていたのではなかったか。苦し紛れにその場を切り抜けようと発した言葉ではなかった、とようやく思い知る。
彼は一度この手を離れた。
自分の跡目を継ぐものを別の人間に委ねる。それを迷っていたことも見透かされたかのように、ウイとの会話は御使いの答えだった。
「私が彼を預かりましょう」
そう言ったのは、若きアルコーネ公爵。
近衛師団へ所属していたミカヅキを、対外交へと引き抜く話を自ら持ってきたあの日。
「それは公のお手を煩わせるのではありませんかな」
近衛でのミカヅキの評判は誰もが知るところだろう。個としては優秀、全としては異物。問題点が明らかに過ぎて周囲が手を出せない。
それを。
アルコーネ公爵は軽々と引き受けた。
「煩わされるのは私ではなく、私の部下たちですからね。その点のお気遣いはご無用に」
城の一角で向かい合った公と候の爵位、親子ほどの歳の差でありながらそれ以上の格の違いがある。
にこにこと人好きのする笑顔を絶やさず、レネーゼ侯爵をはるか高みから見下ろしてくる若きアルコーネ公爵のことを、あの時ばかりは無警戒に受け入れた。
受け入れて、ミカヅキの身を預けてしまった事を、本当に正しかったのかどうか、問い続けてきた。
「あの子は、貴方から引き離されるべきなのでしょう」
そう言ったアルコーネ公もまた、若くして爵位を継いだのだ。
上の世代に囲まれ、それに臆することなく公として城に身を置く彼の在り様が、ミカヅキの導になるならというわずかな期待。
それを公爵は突いたか。
「貴方は今、後継者の為に速やかに爵位を譲り渡す準備に余念がないように見受けられますが」
と前おいて言った言葉は、凄みを増す笑顔と共に今も思い出せる。
「私としては、出来得る限り長く、…そうですね生涯現役とでも言うか…、貴方が命を終えるその瞬間まで爵位にしがみ付いていて頂きたいと思っておりますよ」
その真意。
確かに自分は本館をミカヅキに明け渡し、領地の民へのお披露目も兼ねて視察に必ず同行させ、諸侯らが集まる場への同席も義務付けてきた。
不幸にも世代が一回り下となってしまった孫の地盤を、せめて自分の権力が最大限に活かせるうちに、盤石に整えておいてやりたかったからだが。
その行いのいずれをも、目の前の公は一蹴する。
「掛け値なしの私の真意として」
と言ったアルコーネ公が、それまでの威圧を捨て、無邪気に笑う。
「純粋に、貴方を父の様にもお慕いしているからです。出来るだけ長く爵位を共にし貴方から多く学びたい」
そうは言っても我々の関係でそれが通るとも思えないので貴方の愛孫をダシにさせていただくのですが、と続ける。
「彼は、あまりにも早く成熟してしまった。それが、周囲との摩擦を生んでいるように思えてならないのです」
例えば学校で、例えば近衛師団で、彼が一人浮いてしまうのは周囲が彼を押し上げているからに他ならない。
同世代は言わずもがな、教師や上官に至っては積極的に、正統後継者という存在を周囲と切り離さなければならないと、必死になっている。
「問題は、ミカヅキの方にあるのではないと?」
「ええ、彼はむしろ害を被っているばかりでは?それで、正せと言われても理解できないでいるのでしょう」
「それは、公にも経験がおありか」
「どうでしょうねえ、私はそこをうまく利用してきた人間なので彼の苦労には何一つ同情できませんが」
ああそうか。ダシにされているのは、自分への敬慕の念か。
彼の柔らかな語り口に耳を傾けながら、それを確信する。確信したからこそ、ミカヅキを手放そうと思ったのだ。
アルコーネ公は、自分の意のままに、ミカヅキを後継者として作り上げる機会を欲している。
「私の部下の中に、レネーゼ候の令孫に敬服するような者はおりませんよ」
公爵という位格がそれをさせない、と言い切る。
アルコーネ公との付き合いは長い。先代から「息子を頼みます」と強く握られた手は今もその感覚を忘れてはいない。
その手を、今度は先代から託された青年が、「頼って欲しい」と伸べてくること。
自分の意のままに、公爵という立場にとって都合のいいように、侯爵家の一柱を作り上げようとする人物へミカヅキを預けることに、…己もまた敬慕の念を利用した。
情でさえも、互いの首に刃を突き付け合うような世界で、何が正しいかを知れる機会はそうそうにない。
だが、ウイは言ったのだ。神の御使いの言葉で。
人が人一人を育て上げることに限界はある、と。
その限界が来る前に、ミカヅキは仲間を得たということなのだろう。
彼らは未熟な者同士であるがゆえに、互いに育て、育てられる関係。どんなことにも互いの成長が影響しあって、共に手を伸ばし、先に、後に、数多の困難も乗り越えてきたのだろうと思えた。
戻った三日月に紹介されたあの子たちは、本当に奇跡的な調和で仲間として成り立っている。
それを受け入れてもらえるとミカヅキがこの祖父を信じているのなら、勿論。自分もミカヅキが正しい道を行くのだと信じ、彼を大いなる高みへと委ねよう。
「そうだな、不完全であることも美しいと称えられるのもまた、人の持つ感性よな」
走り続ける馬車の中で思わずつぶやいた言葉は、長年の腹心を務めてくれているリストルへの返事でもある。
彼もまたミカヅキを幼少期から見守ってきた一人だ。ミカヅキの変わりように驚き、戸惑い、それでもミカヅキの前では動揺を押し隠して平常にふるまってはいたが。
こうして二人きりになると、滞在していた間のミカヅキの動向を事細かく思い起こしては興奮気味に口にする。
もうその話は何度目かね、とからかっていながら、何度でもその話に相槌をうつ始末だ。
「だって本当に驚いたんですよ、あのミカヅキ様がねえ」
と、仲間たちの前ではつい気が緩んでしまうのだろうミカヅキの、下町の俗っぽい言動を取り上げて顔をしかめつつ、最後には
「でも見慣れてしまうと、意外とミカヅキ様には似合っているような気がしてくるのが不思議でして」
もっとお傍で拝見していたかったくらいで、と、なんだかんだ嬉しそうなのが、いつもの流れだ。
それに合相槌を打ったのが、先のセリフ。主のいつもと違う反応に、リストルもやや面食らったようだ。すぐに身を乗り出す。
「いえいえ、私はやはり夜会でのミカヅキ様に一番感動いたしましたとも!あれこそが、完全なる美しさ、というもの。あれほど完璧な立ち居振る舞いを見せられては、親戚筋の皆様方もこの先うるさくは口出しなされませんでしょう」
「…どうかな、さらに口うるさくなるかも知れん」
「まさか!ミカヅキ様がそれをさせませんよ」
その意外な言葉の熱にリストルを見返せば、させません、ともう一度強く言い切った。
リストルの真意を読み取って、そうか、と答えれば、そうですとも、と請け負う。
「長かったな」
というつぶやきには、リストルも黙って頷いて見せた。
共にミカヅキの成長を見守ってきた同志だ。リストルもまた、ミカヅキが心を寄せる友を得たことで後継者として安定し、立つことができるようになったのだと認識している。
人としてミカヅキに欠けていたもの。それを埋め合わせてくれる存在。
本来なら幼少の頃より、そのような友をつけてやるべきだったのだ。
まだ幼い身でありながら聡明さを作り上げられたばかりに、ミカヅキは自分の立場を恐れた。
自分の身に何かあれば周囲が叱責を受けること、大人たちが自分に平伏すること、それがどういう事か、敏いあまりにすべてを理解していた。
後継者に害を成すものは徹底的に排除される。人でも、物でも、環境でも、それが後継者の生育の障害になると解れば、周囲の大人たちは騒ぎ立て、自分はそこから遠ざけられる。今思えば、まだ柔すぎる精神にはひどく恐ろしい光景だったのだろう。
ミカヅキは共に成長を支え合うために紹介される諸侯の子息たちともうまくいかず何度も顔ぶれが変わった。
自分の行動一つで、誰かが懲罰を受ける。後継者に対する態度がなっていないと厳しくしつけられる子供たちからの隠しきれない不満さえも敏感に感じ取って、やがて自分から彼らを疎遠にするようになり。
ある日、その全てから逃げた。
「友も従者も必要ではありません」
その宣言は、あまりにも愚かだった。
人に関わり、関わった人間に自分の行動が害を及ぼす事から逃げたのだ。
だがそれこそが、ミカヅキのとれる唯一の自己防衛だと気づいた自分には、それを取り上げることが出来なかった。
あの頃。
レネーゼを冠するものは、二度と失うまいという狂気に満ちていた。
ミカヅキへの後継者教育にしろ、後継者となる代わりに従者を排除しろという要求にしろ。
次期後継者キサラギ、その命が失われたことの呪縛。
その呪縛から、やっとミカヅキは解放されたのた。
レネーゼ侯爵の第一子である正統後継者は、キサラギと名付けられた。
大病や重篤な怪我とも無縁で、心身ともに健やかに育った。
後継者である本分を忘れず、周囲からの人望も篤く、そのくせ身軽で、どこへでも出向いては気さくに場を和ませ自然と人を集め期待を高めるような存在だった。
子供の頃から友人たちの困難には力を尽くし、手と手を取り合い乗り越えてきた。上の方々には真摯に学び、下の者には良き手本となった。妹には愛情をかけ彼女の結婚には奔走し、両親の助けとなる事を誇り、己と領民たちの幸福とは何かを考え、領主になるべくして生まれてきたような子だと思っていた。
誰もが、彼を望んだ。
現侯爵と次期後継者、レネーゼの領は今までにない良き治世になるだろうと誰もが信じていた。
それがどうして、あのような運命へと転がり落ちてしまったのか。
どうしても解らない。どう考えてもどこに落ち度があったのか解らない。
あの子が何に惑い、何に苦しめられ、何に絶望したのか。もう永久に解らない。
あの子は、ある日突然、壊れたのだ。
それはあまりにも突然のことで、あまりにも悲惨で、おいそれと周囲に知らせることも出来なかった。
屋敷の者たちからも隔離し、遠く離れた場所で「静養」という名目で、幽閉するしかなかった。
それまで優秀過ぎる人生を歩んできていた彼は30を目前にして、まるで4つや5つの幼子のように精神を退行していた。
片言で会話もままならない、無邪気に幼児の玩具に夢中になり、どこででも寝ては、気まぐれに食べる、そんな奇行を繰り返した。
ありとあらゆる識者に相談もした。外の国へも出向いた。それでも「心の病だろうか」というばかりで改善は見られない。
それだけならどんな手を尽くしてでも辛抱強く彼の回復を待てただろう。
何よりも耐えがたかったのは、父親である自分が顔を見せれば、絶叫し、悪魔がきた恐ろしいものがきたと逃げ惑う姿だった。
静養から一向に戻ってこない後継者、日に日にやつれ生気をなくしていく候主に、屋敷の者も、その噂を伝え聞く領地の者たちも、不安ばかりを募らせていた数年。
前国王から、助けてやれることはないか、と声をかけられ、その密室で慟哭した。
「あの子を亡き者にしてやってください」と懇願する声に、前国王の頷く気配だけがあった。
面を上げることはできなかった。
その数か月後、レネーゼの領地は喪に服すことになる。
前国王の名で、国葬級の葬儀が執り行われた。
居合わせた誰もが彼の死を悼み、領土は悲哀に満ちていながら、これで良かったのだと言い聞かせる自分の声だけが胸に響く。
長き静養の末の葬儀ということもあり、故人の尊厳のために決して開かれることのない棺が送られていく。
棺。あの棺が空であることを知っているのは、二人だけ。
あの日、あの密会で交わされた懇願を知っている者。この領地では自分と前国王の二人だけだ。
幼児退行した息子が恐れるものが候主である自分である以上、彼を手元に戻すわけにはいかない。まして治癒したとして再び次期後継者としての責務を負わせればまた同じことが起きるのではないか。秘密裏に識者たちの意見を総合した結果、下した現候主としての、…いや、父親としての判断だった。
公に葬儀を執り行い、キサラギ・レネーゼという人物をこの世界から抹消した。
死んだものとされ名を名乗ることも家も領地も帰るべき国さえも奪われたとしても、それであの子が生きていけるのであれば。
「前国王の名において、どうかキサラギ・レネーゼをこの世から抹殺して下さい」
忠誠を誓い、命を預けていた前国王に対して、レネーゼ候としてではなく、一人の父親としての嘆願だった。
領民の運命すべてを背負っていながら、戦うことを放棄した許されざる行為だ。
それを、聞き届けたかつての主は言った。
「わしは王の冠を次に渡した。そちに侯であれと望む道理もない」
その言葉は、永久に光射すことのない暗黒に身を置くことになる自分には、たった一つの救い。
大罪を犯したこの自分に、ただそれだけを言って密室を出ていった前国王。外からの光に浮かび上がる輪郭。思えばあの後姿が、最期になった。
今ではもう、この秘密を抱えているのもただ一人。犯した罪を抱え、これを死の淵までもっていく。
叶うならば、どうかあの子にとっても救いであるようにと、それだけを願う。
「何者かの馬車が立ち往生しているようでございますね」
妻の居住へ到着し、その門を越えた先で待たされていると、様子を見てまいりますと馬車を降りたリストルがほどなくして戻ってきた。
車輪の緩みに手間取っているのだとか、という報告には、「待つことは構わぬ。それよりも修理は万全に整えるよう伝えなさい」と、返答する。
ここを訪れる時には紋章を付けない覆面の馬車であるのが常だ。向こうの馬車で困っている人物にも候主であるという事は知れぬだろう。それよりも、この先の田舎道で再び不具合が起これば、人を呼ぶにも困難だろう、という考えがあってのことだが。
会話の為に開かれた細い扉の隙間から向こうにある馬車を見て、そうか、と思い至る。妻の元を訪れる馬車であれば、こちらと同じようにあえて紋章入りでない事もあるか。親戚筋と言うかの性もある。それを確かめるためにまたリストルを往復させるのも気の毒だと、馬車の修理を待つ人物がここから伺えないものか、目を凝らし。
木陰で待つ人影を見つける。その後ろ姿は、聖職者のようであった。教会の衣であることが分かって、妻が呼んだ教師かと推測する。
ここで暮らす妻は、教師として、博識者や賢者といった知の者たちを招いて多くを学ぶ生活を主にしている。
おそらく、そのうちの一人であるのだろう。
先に子を亡くすという母親としては耐えがたい現実にも、彼女は気丈にふるまってはいたが、その悲しみは耐えがたいものであることは理解できる。
自分たちは、公務を優先するがために、手を取り合い悲しみを共有することもしなかった。次の正統後継者を選ぶ迄はと、激務に追われ、ミカヅキを迎え入れた時に、彼女もまた倒れたのだ。もうこれ以上失う事には耐えられそうもない、と、彼女をこの離宮へ離したのは自分だ。
ミカヅキの後継者教育が始まる。それは、自分たちの息子がたどってきた時間を、再び一から始めることだった。レネーゼの伝統と格式が、後継者を作り上げていく。だが繰り返されるそれは同じでも、そこにいるのは息子ではない。その乖離に、妻もまた壊れてしまうのではないかと恐れ、遠ざけた。
だが遠ざけても彼女は公人としてあった。もうそれ以外の生き方はできないのかもしれない。
心の傷を癒すよりも、教師たちから学び、己の考えを高めて、レネーゼの統治をはるか遠くから見分することに専念している。それこそが彼女にとっての治癒なのだろうか。そう考え、好きにさせているのだが。
視界の端で、聖職者の元に御者の一人が駆けていく様子が見えた。
修理が終わったか、と扉を閉めようとして、その光景に目が釘付けになる。
聖職者は二人いたようだ。木陰にいた一人が、傍らで立ち上がろうとする一人に手を貸している。見るからに老齢の彼に付き従って、馬車の方へと誘導する姿。
ここからでは確かな相貌は見て取れない。だが、その立ち姿に胸が締め付けられるような痛みを訴える。
頭に鳴り響く鼓動の中、細い視界をゆっくりと横切ったその人影はあっさりと消え。それを追うために扉を開くかどうかを逡巡している時間は、永遠の責め苦のようにも感じられた。
聞こえているはずの馬車外からの物音も脳に情報を伝えるものではなく、無秩序なざわめき。リストルが戻って来、あちらの馬車は無事発ったようだ、と告げられ、喪失感に絶望する。責め苦からの解放にもたらされた喪失感は、失う前よりもずっと、この身を苛んだ。
「奥方様が数年前から招いておられる博識者のお一人のようです。なんでも、放浪の賢者、と呼ばれているとか。定住地を持たず気ままに巡り歩いているので、近くに寄った時は顔を見せる、という程度のようですが」
馬車を館の前まで着ける間の短い時間で、如才なく相手の情報を伝えてくるリストルには気づかれていない。普段通りにふるまえている、という自覚があった。自負ではない、多くの時間を公人として費やしてきた功だ。
そしてリストルもまた、公人の側近として筆舌に尽くしがたい研鑽に人生を費やしているのだ。この後も、互いの間で放浪の賢者に付き従う人物について触れられることはないだろう。
だが妻は。
ここへ別居を構えて以来、初めてこの自分を出迎えに出てきた妻は、らしくもなく動揺して、両腕を掴んできた。
「嗚呼、今日おいで下さるのだと分かっていれば、もう少し…」
もう少し早く、と言いたかったのか、遅く、と言いたかったのか。
どちらであっても、公人として個の内面を一切晒すことのできない彼女の箍が外れたのであれば、もう許されてもいいのではないかという思いと、決して許されるはずのない箍を自分がはめなおさなければならない重み。
それを知るはずもなく、妻はため息のように胸の内を吐き出した。
「お引止めしておくのだったわ」
その様子は痛ましくもあり、愛おしくもあった。
妻は何時であっても、この自分の手を煩わせることもなく、再び公人としての立ち位置に戻っていくのだ。
「放浪の賢者様、かね」
と、殊更朗らかに響くよう声を上げれば、彼女が驚いたように顔を上げる。それに頷き、「ちょうど発つ折、後ろ姿を拝見したものでね」と言えば、それで彼女もすべてを察したのだろう。
「とても博識な方だと耳にしたばかり。詳しくは君から聞きたいと思っていたところだ」
ここではない場所で、屋敷の者たちから離れられる場所で、という暗黙の了解にただ頷く。それを労わる様に肩を抱いて、裏庭に面したテラスへと歩を並べた。
「数年前からお招きしているという事は聞かされたが」
その通りです、と囁く声音は庭の低木に吸い込まれ、鳥のさえずりと混ざり合う。そうでなくとも久方ぶりの夫婦の語らいに耳を傾ける無粋な者はこの屋敷にはいないだろう。
それでも。
「何度か、手紙にしたためようと考えては、取りやめてまいりました」
それでも口に出せない真実がある。口に出せない以上、文字に表すこともできない。
「ならばせめて候主が訪れた時に、とも思ったのですが、やはりご本人がいらした方が良いのではないかしらと考えもあって」
考えている間に数年経ってしまいましたわ、という妻の視線は、言い出せなかった時間を追うように緑を彷徨う。
数年の間、見事に隠し通した彼女の精神力には、いまさら驚かされたりはしない。
どういった方かね、と尋ねれば、数年前に実家へ出向いた際に、姪の一人が河川の事故に立ち往生していた所を助けられた礼として屋敷でもてなしていた場に居合わせたのですわ、と淡々と説明をする。実家で何度も説教を聞き、感銘を受け、ぜひ我が屋敷でも、と招いたのだという。
「多くの聖職者にも慕われているようで、いつも供に付けている者の顔ぶれが違いますの」
今日は珍しくお二人でいらしたわ、という横顔から感情はうかがい知れない。動揺は、あの一時だけだった。
彼女の真実の言葉を聞き出す機会は失われてしまったのか。知りたい事は数多あるだろう。問いただしたい事も、詰りたい思いもあるだろう。だがそれらを胸の内に秘め、自分がいかに放浪の賢者の説教に心奪われたのかを離して聞かせる。
「放浪の賢者、と言われるのは、各地を彷徨う生き様を言うのではありませんのよ」
「ほう」
「何物にもとらわれない思考を呼称しているのです」
国も、地位にも、時間にもとらわれず、自由自在にありとあらゆる者の立場にたって思考することができる者。それゆえに思考は深く、淀むことなく、おおらかに全ての命を包み込むようにして流れていく。
「私は、ただそこから語られる言葉の奔流に身を委ねる事で心が洗われるような気がしたものですから」
だから貴方様にも賢者様との時間を用意して差し上げたかっただけです、と言った彼女の言葉に嘘はないだろう。
真実を知った彼女が、何年もそれを自分に打ち明けなかったのは。何度も文面を考えて逡巡し、結局文字にすらできなかったのは。
先ほどに出迎えた彼女の目の色で解る。慈愛だ。
生涯の伴侶である者にさえも真実を打ち明けることのできない立場を憐れみ、なぜ打ち明けてくれぬのだと恨み言一つ吐き出せぬ立場を憐れむ。…妻は、そこからすでに遠く離れた場所にいる。おそらくは、放浪の賢者の言葉の奔流によって、憐れむという境地から抜け出し、未だそこへ留まる夫を救い出そうとしているのだ。
ーそれに手を伸ばして良いのはお爺ちゃんじゃないんだよ
そう言ったウイの言葉が蘇る。
誰もが自身の胸の内にある暗く深い場所へ沈めているもの、そこへ必死に手を伸ばしていては諸共に沈んでいくばかり。そういう事だろう。
「なるほど、君がその方に信頼を置いているというのはとても喜ばしいことだ」
そういえば、では、と顔を上げた妻と、ここに来て初めて視線が合う。だから。弱い夫を責めることなく、強くあろうとした妻の慈愛に敬意をこめて頷いた。
「だが私は神の言葉に耳を貸すことができぬ」
国に、王に、忠誠を誓う者として。時には、王に従うために神の言葉さえも振り切らねばならない立場に身を置くものとして、せめて真摯に神に向き合うためにと、レネーゼの名を継いだ時から神の御前に首を垂れることなかれと律したのだ。
「かの者が聖職者としてある以上、私は会見するわけにはいかないだろう」
「そんな」
「今、ミカヅキが後継者として起った」
そういえば、頑迷な夫の言葉を非難するようだった妻の表情が変わった。ミカヅキが、とつぶやく様子に、もう一度頷く。
「私は今度こそ正しく次期候主を領民に約束しなければならない。それを、これ以上なく喜ばしい事として受け入れられる自分に誇りを持っているよ」
この言葉で、妻には理解をもらえるだろうか。
後悔はない。人らしさを奪ったミカヅキに対しても、悲嘆を味合わせた領民に対しても、命を奪った息子に対しても。
悔やんでいる余裕はない。この先の時間は全て、次期候主の為に。レネーゼの名を継ぐ者のために全霊を注ぐ。
「だからどうか君が」
この愚かな決断とのちに向かい合う事になるのだとしても。
今は、手を伸べる相手を間違うわけにはいかない。
「私の分まで、聖職者らの言葉を聞き、過つ私の道を照らして欲しい」
名を呼ぶことも許されないばかりか、まったくの他人として互いに言葉を交わせない状況であっても、妻が望むのであればそれを取り上げることはするまい。
儂の前では候であれとは望まぬ、その御言葉を支えに、年に数回あるかないかの僅かな時間くらいはせめて守ってやれるだろう。
二人で手を取り合い、悲しみを分かち合うことのできなかった時間を埋める。
限りある時間全てを使っても、埋められないものを埋めるのは今この時だけ。
「私は言葉でなく、君の在り方に救われているのだよ」
だからもう、二度と口にできない真実もこの身に預けてくれればいい。
望むように彼の者の言葉に耳を傾け、それを語りたいと思うのならば心ばかりは寄り添うつもりだ。
しばらく目を閉じて押し黙っていた妻は、軽い落胆を見せた。
「殿方というものは、新しい戦が始まればすぐそちらに行ってしまわれるものですものね」
「う、うん?」
唐突な詰りにうまく言葉を返せないでいると、彼女は顔をあげて見返してきた。
「大舘様のお言葉ですわ」
それは、先々代である自分の祖父の事か。
「貴方との婚儀の前に、そういうものだから許せよ、と仰っていました」
なので許します、と言われても、しばらくピンとこなかったが、そういえばこれは彼女流の皮肉だったか、と思い至る。
もうそんなことも簡単に解らないほど、自分たちは長く互いに向き合っていなかったのか。切なくやるせない思いに、ただ苦笑するしかない。
「ご婦人方には戦の後始末ばかり押し付けて申し訳ないね」
若かりし頃。家と家の契約として婚約し、根っから気の合わない自分たちは、度々皮肉に皮肉の応酬を周囲に見せつけては、「とても気が合うのですね」と感心されていたものだ。それを妻も思い出したのだろう。さらに強烈な皮肉が返ってきた。
「貴方様には、負け戦などに二の足踏まずさっさと次の戦へお行きなさいと言ってあげるべきでしたわね」
強烈な皮肉に互いを傷つけて、涙を見せるのはいつも彼女の方だった。
だからいつしか、自分は皮肉をただ聞き流すようになっていたのだ。
「私が言わねばならなかったのですわ。…ミカヅキの為にも」
そういって背を向ける彼女に近づく。
「ここまで、とても長くかかったが」
先ほど、リストルと分かち合った言葉をもう一度口にして、妻の肩を抱く。
「遅かった、とは言わせぬよ」
レネーゼの名に懸けて。
その言葉に、妻もしっかりと手を握り返してきた。
「もちろんですわ」
もう一度、戦いの場へ戻る。
「存分に戦いに身を投じていらっしゃいまし」
手に手をとって。
「私は、貴方様の後顧の憂いを絶つべく在るものですわ」
もう二度と深淵に沈まないように。
この手は、誰かを救うために。
そしてもう一つの手は、誰かに救われるために。
救われていいのだと己を許すこともまた、強靭さの証になる。
そうして人が人を強くする。長い命の旅の中で、人が人を育てる。
どんなに愛しくても他人の人生を背負えぬ苦渋の果てに、命は巡り巡って彼方を救う大いなる流れに身を投じる。
強く生きよ。
命が生まれる理由は、ただそれだけ。
それだけであることを、あの子に伝えることが今更叶うなら。
叶うなら、この生き様を通して。
強さとなる。