この秋、忍坂(おっさか:奈良県桜井市)に立派な案内板が建てられた。
場所は、奈良交通の忍坂バス停の近くの国道166号線の道路脇。
一時期は、祭り(イベント?)でもあるのか道沿いに飾りつけがされていた。
なにか町おこし?
@忍坂街道
忍阪の名が「記紀」にみられるのは古く、神武東征の時「大室を忍坂邑に作りて云々」と記されたものが最初で垂仁紀には剣一千口を忍坂邑に蔵むとの記事も見られます。これらはいずれも忍坂が軍事上重要な拠点であったことを示しています。
允恭紀に記されている忍坂大中姫が闘鶏国造を稲置におとす説話は忍坂の地を具体的に示す資料といえるでしょう。また和歌山県橋本市の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡に刻まれた文字の中に『・・・在意柴沙加宮時(オシサカノミヤニイマストキ)・・』という文字が見られることは広く知られるところであり、これが允恭天皇の皇后である忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)の忍坂宮である可能性を強く指摘されており実態解明が期待されています。
また忍阪は近江の豪族、息長氏の大和での拠点だったのではないかとの考えもあり、息長氏の血を引いているという忍坂大中姫、そして允恭紀には妹の衣通姫が母親とともに住んでいた地が近江の坂田とあり、舒明の和風諡号は「息長足日広額」、父親の忍坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノミコ)の母親も息長氏の出身と息長ファミリー=忍坂一族で、やがてこの一族が皇統の主流となって行くのです。
古代史家の和田 萃氏は「忍阪の地は大和王権にとって極めて重要な土地柄で、忍坂大中姫の宮が存在し息長氏の本拠地である近江の豊富な鉄資源をもとに武器類が作られ忍阪の武器庫に収められ王権を支える強力な軍事力になった」と考えられています。
これらのかかわりからか、忍阪には修理記録や地元の古老の話からも舒明陵にほぼ間違いない古墳と考えられている段ノ塚古墳をはじめ、7世紀の宮廷を多彩に彩った田村皇女、鏡王女、大伴皇女等の人々の陵墓が営まれています。
「万葉集」の中にも忍坂山(外鎌山)を歌ったものが一首見られ当時の人々の間でも青垣山の一角を占めるこの忍坂山が親しまれていた事がうかがえます。
場所は、奈良交通の忍坂バス停の近くの国道166号線の道路脇。
一時期は、祭り(イベント?)でもあるのか道沿いに飾りつけがされていた。
なにか町おこし?
@忍坂街道
忍阪の名が「記紀」にみられるのは古く、神武東征の時「大室を忍坂邑に作りて云々」と記されたものが最初で垂仁紀には剣一千口を忍坂邑に蔵むとの記事も見られます。これらはいずれも忍坂が軍事上重要な拠点であったことを示しています。
允恭紀に記されている忍坂大中姫が闘鶏国造を稲置におとす説話は忍坂の地を具体的に示す資料といえるでしょう。また和歌山県橋本市の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡に刻まれた文字の中に『・・・在意柴沙加宮時(オシサカノミヤニイマストキ)・・』という文字が見られることは広く知られるところであり、これが允恭天皇の皇后である忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)の忍坂宮である可能性を強く指摘されており実態解明が期待されています。
また忍阪は近江の豪族、息長氏の大和での拠点だったのではないかとの考えもあり、息長氏の血を引いているという忍坂大中姫、そして允恭紀には妹の衣通姫が母親とともに住んでいた地が近江の坂田とあり、舒明の和風諡号は「息長足日広額」、父親の忍坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノミコ)の母親も息長氏の出身と息長ファミリー=忍坂一族で、やがてこの一族が皇統の主流となって行くのです。
古代史家の和田 萃氏は「忍阪の地は大和王権にとって極めて重要な土地柄で、忍坂大中姫の宮が存在し息長氏の本拠地である近江の豊富な鉄資源をもとに武器類が作られ忍阪の武器庫に収められ王権を支える強力な軍事力になった」と考えられています。
これらのかかわりからか、忍阪には修理記録や地元の古老の話からも舒明陵にほぼ間違いない古墳と考えられている段ノ塚古墳をはじめ、7世紀の宮廷を多彩に彩った田村皇女、鏡王女、大伴皇女等の人々の陵墓が営まれています。
「万葉集」の中にも忍坂山(外鎌山)を歌ったものが一首見られ当時の人々の間でも青垣山の一角を占めるこの忍坂山が親しまれていた事がうかがえます。
聞き知った名前もありますが、詳しくお調べになられてますね。
地名って難しい場合がありますよね。
どうしても読めない、
何故って考えるのも旅の楽しみです!
まだまだ勉強不足です。
ももりさんの記憶は凄いです。
いつも感心しています!