写真は、明日香・甘樫丘から南西の眺め。
遠くに聳えるのは県境となる葛城山(右)、金剛山(左)。
その手前にあるのが、橿原市と高取町の境界にある標高210mの“貝吹山”。
その“貝吹山”の山頂には、昔、お城があったという。
貝吹山城は、南北朝時代に越智(おち)氏によって築かれた。 南麓にある越智氏の本拠越智城の詰の城として、また北の平野部への進出拠点となっていた。越智氏の盛衰と共に幾度も戦いの舞台となった貝吹山城は、天文15年に筒井順昭に攻められ開城した。筒井氏の後、松永氏の持ち城となったが、永禄9年、越智家益が貝吹山城復帰を果たした。 その後、織田信長の命による一国破却令により廃城となったという。
それに、貝吹山や近くの越智丘陵の尾根上には、古墳時代に約210基が築かれたことがわかっている。その大部分は群集墳と呼ばれる直径10~20mの円墳で、墓壙を掘って木棺を直接埋葬している。ところが古墳時代後期になると、貝吹山の南麓周辺に横穴式石室を持つ古墳(鑵子塚(かんすづか)、マルコ山、束明神など)が多く築かれるようになる。
春になったら、貝吹山に登ってみたいなぁ~
遠くに聳えるのは県境となる葛城山(右)、金剛山(左)。
その手前にあるのが、橿原市と高取町の境界にある標高210mの“貝吹山”。
その“貝吹山”の山頂には、昔、お城があったという。
貝吹山城は、南北朝時代に越智(おち)氏によって築かれた。 南麓にある越智氏の本拠越智城の詰の城として、また北の平野部への進出拠点となっていた。越智氏の盛衰と共に幾度も戦いの舞台となった貝吹山城は、天文15年に筒井順昭に攻められ開城した。筒井氏の後、松永氏の持ち城となったが、永禄9年、越智家益が貝吹山城復帰を果たした。 その後、織田信長の命による一国破却令により廃城となったという。
それに、貝吹山や近くの越智丘陵の尾根上には、古墳時代に約210基が築かれたことがわかっている。その大部分は群集墳と呼ばれる直径10~20mの円墳で、墓壙を掘って木棺を直接埋葬している。ところが古墳時代後期になると、貝吹山の南麓周辺に横穴式石室を持つ古墳(鑵子塚(かんすづか)、マルコ山、束明神など)が多く築かれるようになる。
春になったら、貝吹山に登ってみたいなぁ~
筒井氏、松永氏など戦国時代に見る名前ですが、このあたりに松永氏は出てきていたのですね。
ここのとこず~っと、お炬燵に脚をつっこんで司馬遼太郎。
昨夜も1冊読み終えました。
だから、頭の中は戦国時代で満タンなのです!
この貝吹山の東側(写真の左端)は、明日村との境にもなっています。
ここ近年話題になった古墳が、いくつも並んでいるんですよ!